20:21
白く霞がかった視界がゆっくりとクリアになっていく。僕は意識を飛ばしていたことをそこで初めて知るのだった。
「おーい。あ、目を覚ましたようだ」
呼びかけられた声の方へ少しだけ目線をずらす。中音域の女性の声だ。
「おはよう」
紅を目元に落とした女性がこちらを見つめていた。机に少しだけ寄りかかり、後ろ手に両方の手をついている。
部屋自体は、華美な装飾のなされていない上品な雰囲気で、アンティーク調の家具が中心で、全体的に薄暗い印象があった。壁は白、天井とカーペットは紺色だ。
僕の横になっていたのはこげ茶の革製ソファだった。クッションは赤いベルベットで、五つ敷かれている。微かに甘い桜餅のような香りもしている。
「ようこそ、遠路はるばるご苦労様。鍛冶場ろくろ君」
体勢を直し、ソファから立ち上がり離れる。僕は部屋の奥に陣取る彼女に身体を向けた。
彼女の身長は一五〇センチよりも低く、腕や足が折れそうなほどに細い。白いシャツに黒いベスト、黒いスキニーパンツと革靴の間の赤い靴下が印象的だ。白と黒と赤だけで構成されているなんて、毒々しい花のようだ。
「わたしは梶井三七十。参百七拾と書いて、みなとさ。さて、早速だけど本題だ」
鈴呂さんや久住さんと同じように、上辺だけの綺麗な笑顔。ここの人たちはみんなそうなのだろうかと疑いたくなるほど、彼女らの感情が笑みで見えない。ある意味、分かりやすく己を武装をしているのだ。
本題と銘打たれた。僕は「よし」と言われるまで言葉を発する権利はない。この施設、この空間自体、僕にとっては裁判所であり、刑務所であった。
空気そのものは思いの外軽い。梶井さんという人が醸し出す雰囲気なのだろうか。状況を考えると、身を緩めてはいけない。
「君には二つの選択肢がある。一つはその悪神を殺すか、もう一つはわたし達の仲間になってこき使われるか、だ」
微笑んだまま、とんでもない条件を突きつけられる。僕は慌てることもなかった。なんとなくだが、想像通りの展開である。
〈俺様はどっちでもいいゼ、殺される気はさらさらないからナ!〉
どっちでもいいわけあるか。どちらを選んでも、何かしらのマイナスを被るのはこちらである。
困ったのは僕のほうだ。今ここでその二択を選べと言われても、すぐに返事ができる内容ではない。まず前者は論外だ。こうして僕と共にいてくれる友人を自分の都合で死の危険に晒すわけにはいかない。しかし、後者もまたハイリスクだろう。得体の知れない笑みを絶やさない鈴呂さんや久住さん、目の前にいる梶井さん、彼らと切っても切れない縁を結べと言われているようなものだ。普通の会社に就職する何十倍も刺激的だろうけれど、僕はまだそこに飛び込む勇気はない。そもそも、就職という単語を使ってもいいものなのだろうか。例えば、僕が後者を選んだとして、半ば奴隷のように働かされるだけかもしれない。いいや、むしろその可能性は十二分にあると言えるだろう。根拠はない。
そうやってうんうん悩んでいると、見かねた梶井さんが一つ溜息を吐いた。明らかに困惑している僕に助け船を出してくれるらしい。
「……って突然言われても困るよね? 順を追って説明しよう」
「……ありがとうございます」
子ども相手に仕方なく教えてやろうという空気感である。僕は今日は午後からずっと胃が痛いままだ。
「では少し、神様についておさらいする。さらっとね」
決して早口ではないのに、まくしたてられている感覚がする。僕は得も言われぬ不気味さを、生涯胸の内に隠すことにした。
「神様がどうやって生きているか、知ってる?」
「信仰と供物、でしたっけ」
答える他に、逃げ道はない。ちらりと斜め後ろを見ると、誰かがいた。いつのまにか、部屋に入ってきたのか、欠伸をし終えた鈴呂さんに軽く手を振られた。
「そうね、その通り。信仰心が広まり、深まっていけば、それだけ強大な力を得られるし、その代わりとして神の守護が分け与えられる。……通常、神々は冠位を持っているけど、その単位は」
クイズ大会とは到底言えない。この状況が尋問以外のなにものでもないからだ。僕は目の前の梶井さんの眼光に晒されながらも、必死に頭を働かせる。
「情、ですね。一番上の神が六柱で構成される六情。次に十二柱の十二情、二十四柱の十二情……ですよね」
「正解。大なり小なり、神はその冠位の下で神域を奪い合ってる」
常識といえば常識なんだろう。世界を六等分する六柱を筆頭に、神には力関係がある。そこには、僕たち人間が深く関わっているのも当然だ。今朝、全校集会でシロガネという女神が説明していたものと内容はまったく同じである。
「悪神はね、そういった通常の神という定義から少し離れたところにいる存在なのさ。人間的な損得勘定と残虐心を持っていて、特定の人物としか契約を交わさず、強大な力の代わりに契約者の血肉や寿命を要求する。そして、契約をしたが最後、人を破滅に導く」
〈勝手に破滅してんのはそっちだロ〉
人を破滅に導く。抽象的な表現で濁されている感じがして、納得はいかなかった。けれども残念なことに、そういう決まりなのだ。悪いものは悪い、それ以上でもそれ以下でもない。
やはり、それでも、納得はいかない。反論したくなる気持ちを抑えて、僕はきゅっと口を結び、今まで以上に黙りこくった。
「だから、悪神とその契約者が公共の利益にならない限り、抹消しなければいけないんだ」
人にとって悪いものを、人にとって良いものにする。まるで犯罪者と同じだ。僕はザガンが普通の神ではない、悪神であることを知っていたが、知った上で離れなかった。このまま誰に勘づかれることもなく貫き通せるなら、社会的に僕は平々凡々の人でしかない。
実際そんなことは不可能に近い。神学協会の人口は多く、最低でも一年に一度、在学中であればほぼ毎日顔をつきあわせることになるのだから、僕のように今まで勘づかれていなかったのも驚きなのだろう。
「そこで、私たち神学協会が考えたのは、悪神の活用。公共利益にすることで、無暗に殺生をしないように。……神々が命絶えるとき、神は己の名を忘れ、自我を失くす。ついには誰にも見向きもされず、消えていく。そして、消えた先にあるのは人への憎しみ……自然災害となって私たちに最後の復讐をするの。過去の災害は全て神々の死が引き金になっていると言われているんだよ。古くから様々な国々でそれを抑えようと、多くの神職が死んでいったけど、力のないただの人間には限界があった」
彼女の瞳はまっすぐ、未来を見据えていた。神の死は、自然災害を引き起こすなんてのは、よくできた迷信だと思っていた。
神。人ならざる頂点の存在。寿命に囚われない、自由な生き物。
そう勝手に解釈していた。世界中の大多数が、そういう認識をしているのは間違いない。
神は、人と共に生きなければ、死んでしまう。人は神を恐れるのに、神は人に囚われている。この関係を絶やす日は、きっと、こないだろう。どちらかが現状を捨てなければ、きっと。
「……神と、なにより人を守るために、わたし達はここに在る」
梶井さんは、神よりも人を愛しているといった顔をしていた。いかに神々を静かに逝かせられるかが、人の幸せに繋がると信じている顔だ。
僕が真っ先に思い浮かんだのは、女神オウカの姿だった。己を失くし、名すらも忘れていた彼女。唯一の救いは、彼女を最も愛していた少年の心が、今でも彼女に寄り添っていたことだ。もし、鈴呂さんも久住さんも、このニチヨンという施設が存在しない世界だったら、女神オウカは寂しく死んでいたことだろう。それはあまりにも、残酷で残念だと思う。
――ああ、そうだ。ようやく気付いたことがある。僕は、彼女が助かって嬉しいのだ。
〈……めんどくせえのに捕まっちまっタ〉
げんなりとしたザガンの声はこの際無視する。僕に与えられた選択肢は二つしかない。それもほぼ進路は決まっている。捨てるか捨てないか。そんな単純な話だ。
「神々の終末期医療。最期を看取るおくりびと――神を、救ってみる気はない?」
ゾワリと背筋に寒さがやってきた。感動でも緊張でもない、これは紛れもない、
〈興奮〉
唇がわなわなと震える。わかりやすく煽られた。梶井さんの態度でそれが伝わるくらい、彼女はこちらを品定めするように眺めている。僕の反応を見て、無表情だった顔に辛気臭い笑みが宿る。
〈厄介この上ないゼ〉
ザガンの言う通りである。僕は完全にその気になってしまって後には引けないくらい情熱が灯ってしまった。静かに燃えるこの炎は、今朝の僕なら絶対に見れなかったものだ。神隠しの、あの冒険が、ヒイロとの交流が、僕を変えた。こんな数時間の間に、僕は見違えるほど変わったのかもしれない。
「神を救うなんて、」
大それた言い分だ。神々の死を看取るのが、人だなんて絵空事にしか思えなかった。それ以上に、僕が神を救うなんて、できるとは思えない。鈴呂さんや久住さんのように、剣術に優れているわけでもない。逃げ道も、ない。
「悪神ザガン。トモダチとずっと一緒にいたいなら、いばらの道も歩いて。君の悪神には恐らく、いばらの道を燃やし尽くす力がある。断言できる。選ばれたのだから、ね」
彼女の瞳に鋭い光が灯った。本気なのだ。僕が選ばれたなんて、ザガンが勝手にこちらへ来ただけなのに。
「トモダチを、殺したくはないだろう?」
〈やめておケ。俺様どうせ死なねえシ?〉
「君のトモダチをわたし達は殺すことができる。強いからね」
〈雑魚が何人寄っても雑魚のまマ、耳を傾けんナ〉
「わたしのことを馬鹿にすると、痛い目を見るよ」
〈読心術でも会得してんのカ、この女!〉
ザガンの声は聞こえないはずなのに、まるで二人が会話しているようだ。僕を完全に無視した状態で、である。恐らく、梶井さんはザガンの声は聞こえていない。推測で全てを話している。その証拠はないが、何となく彼女にはそれができてしまいそうだった。
「不満そうな顔をしているね。それもそうか。君の人生を決めるかもしれないから慎重にもなるだろう。なんでも質問してごらん?」
今ここで質問をしないなら、今後一切話す隙を与えないと言われているも同然だ。そんな凄みや厳しさが、彼女の声色や言葉尻から感じられる。僕が単純に怖がっているからそう見えるのだと笑われればそれまでなのだけれど。
質問はたくさんある。ありすぎてうまく出てこないけれど、とりあえず聞いておきたいことを聞くべきだ。梶井さんに笑われる覚悟はできている。
「――高校は続けられますか?」
「……? ……」
わかりやすい沈黙が流れた。後ろに控えていた鈴呂さんの衣擦れの音すらもしない。
僕は恥ずかしく感じて冷や汗が出た。たっぷり三十秒ほど皆の呼吸が止まってようやく音を発したのは、目の前の彼女だった。
「ふ、ふは、あっははははっ! 君、なになに? 心配事が命でもトモダチでも将来でもなく、ふふ、高校かあ! 変わってるねえ!」
左手で腹を、右手で口を覆い、彼女は笑いだした。薄っすらと涙の膜を作りながらも、その様も上品である。僕は笑われるとは思っていなくて、恥ずかしさよりも困惑が勝った。
僕が最も個人的に懸念していたことが、高校に通えるかどうかである。大学には行けなくとも、折角の高校生活をここで諦めろと言われるのは嫌だった。なにより、僕の父が生前言っていた学ぶことの重要性をまだ実感できていないのだ。ただ、今はもう会えない父との数少ない約束を、面倒だからと投げ出していいわけではない。
「引き続き高校は通ってもらうし、必要とあらば大学や大学院にも進む自由があるよ。ところで、どうしてそんなことを聞いたんだい?」
ひとしきり笑った後、梶井さんは真面目な顔でこちらを見つめた。彼女の黒い瞳に目線を合わせることができない。緊張しっぱなしのようだ。
「できる限り勉強をしたいから、です。父との約束で」
「ああ、お父様か。優秀な研究者だったそうだね」
先ほどの笑っていた声とは違う、落ち着いて優しい色だ。彼女はきっと豪胆だが気配りができる方なんだろう。
「父の研究のほとんどを僕は知らないんですけど、父がしきりに言っていたのは『知ることが強さになるから』って」
「それは、確かに、命やトモダチと同じくらい大切なことだね。笑ってはいけなかった」
「いいえ、そんな」
僕の個人情報を簡単に手に入れられる人たちが、父のことを調べていないわけがない。しかし、悪いように言われなくて安心した。
「他に質問は?」
聞きたいことはたくさんあっても、それを聞いていい立場にいるとは到底思えなかった。現時点で法を犯した犯罪者である僕が、あれこれ知的好奇心で聞いても自分の立場を弁えられていないことになる。
「……他の選択肢ってありますか?」
僕の立場はそう、慈悲をかけられているだけの犯罪者。この質問も返ってくる答えは分かりきっている。
「ないね。ウチの仲間になれないなら逮捕した上で君のトモダチを処分しないといけないんだけど、」
「はい、よろしくお願いします!」
「うんうん。予想通り。んじゃ、この書類達にサインしてくれ」
予想通りなのは僕もだ。暗に拒否をするならそれ相応の対応を取ると睨まれている状態で、「よろしくお願いします」以外の言葉を出せるほど自分が嫌いではない。
僕の勢いある返答で、また笑みを零した梶井さんは、にこにこと書類を二枚、机の上に出した。A4の紙には、それぞれ『秘密保持契約書』、『雇用契約書』と明記されている。




