18:02
僕とオウカが半ば強制的に押し込められたのは、黒塗りの高級車だった。座り心地のいい革製の座席に座り込んで、僕は行き場のない目線を彷徨わせる。運転席には男、助手席にはその部下の女性が座っている。外の景色が流れていく中で、もう空が暗くなり出していることにやっと気づいた。
前方の信号が赤になって、少し前に身体がつんのめる。ブレーキがかかったのだ。
「自己紹介がまだだった。俺は鈴呂、こっちが部下の、」
「久住一花です! こちら、名刺です」
彼の名は鈴呂、彼女の名は一花というらしい。助手席からすっと差し出された二種類の名刺を受け取って、文字を読んでみる。そこには、やはりというか、予想通りではあったが少々こちらに分が悪い肩書が書いてあった。
「……日本神学協会第四支部所属」
〈ニチヨンの輩、面倒だナ〉
通称ニチヨン、今朝集会でシロガネが話の中で触れていた。神々の取り締まりやザガンのような悪神を統制する組織である。これはいけなかった。僕は単に女神オウカによるこの一連の神隠し事件の被害者であるから連れられたのかと勘違いしていた。どうやら、オウカよりも僕のほうが、いいや、ザガンの命が危ないのである。そういえば、鈴呂という男が「悪神様」と言っていたような。
僕が一人で勝手に驚いているのを無視して、久住さんはダッシュボードからバインダーを取り出した。黒いそれには分厚い紙が挟まっていた。
「情報の確認をしますね。鍛冶場ろくろ、一九九九年六月生まれ、所属は静岡県立駿河南高等学校一年六組。家族構成は……遠縁に一人のみ。合ってるかな?」
「っはい、あってます」
書類に書かれているであろう僕の情報を読み上げた。名前も生年月日も学校も、家族構成すら間違いはない。僕は彼らに委縮しているのを隠さず、ただ息をのんだ。
「目的地まで一時間くらいかかりますから、休んでていいですからね~」
休んでいいと言われても、休める気がしない。久住さんも、運転をしている鈴呂さんも、どちらも物腰は柔らかである。僕の隣の席で半ば舟を漕ぎだしているオウカに至っては、前にいる二人のことなど気にも留めていないようだ。
神と呼ばれる生物はどこまでも神経が図太いらしい。僕みたいな人は、この状況で羽を休められるほど、楽に生きられない。ぐるぐると頭の中でこの状況の整理をしても、いっこうに信じられる回答は出てこない。それもそのはず、僕が答えを持っているわけではないのだから、悩んでも無意味。恐る恐る、僕は二人に質問をすることにした。
「あの、このあと僕はどうなるんでしょう……?」
一番聞きたいことをはじめに聞く。僕が最も気にしていること。
この質問は、よくドラマやアニメで耳にする台詞だ。まるで僕が殺人を犯したようだが、ザガンの存在がどうしても僕を“犯罪者”に仕立て上げてしまう。
「女神オウカとの約束があるからなあ。君が素直でいい子にできるなら、何もしない。でも、」
含みを存分に持たせた言い方だ。僕をすべて見透かす態度に、嫌でも生唾を静かに飲む。
フロントガラスの向こう側から、落ちかけた夕日の光がほのかに暗い藍色になりかけているのがわかる。その光が車内に入り込んでいるのだが、それによって陰影が濃くなって、前に座る二人の印象も変わっていく。ちょうど、前方の信号が赤色になった時、車を止め、僕の方へと向きを変えてわざわざ笑顔を向けた。
「君のその、抱えている“悪いもの”をどうしようかぁ?」
爽やかな笑みも、その雰囲気は張り詰めていて、なんともアンバランスだった。赤い信号の光が、彼の黒い髪の先を染め上げている。
「悪いものなんて、なにも」
振り絞るようにか細い声が無意識に出た。腹の底にある未知の臓器を鷲掴みにされている感覚だ。
「ふぅん、君にとっては、悪いものじゃないのかもね。俺達にとってもだけど」
言葉の真意が掴み切れないままでいる。しかし、これだけは分かることがある。
〈……バレてるゼ〉
ザガンの声が頭に響く。そうだ、バレている。大人は怖い。僕みたいな普通の高校生が、隠し通せる嘘なんてないのかもしれない。
ザガンという悪いモノと共に在ることを、世間は許しはしない。だから僕は今こうして窮地に立たされている。さながら犯罪者と同じ。
「ろくろ君、詳しい話はあとでしますから! ね、今は休んで」
明るい久住さんの声で、車内の空気が少し変わった。少し困ったように眉を寄せてはにかんでいる顔を向けてくれた。緊張していた背筋が少し緩んだ。
「ここで私達と喧嘩をしても、あなたに勝ち目、ないですから」
……前言をすぐに撤回しなければならないらしい。久住さんも、鈴呂さんと同じタイプの人間のようだ。
二人とも睨むでもなく、不機嫌になるでもなく、ただ笑う。話の内容を無視すれば、どんな場面でも通用するような見本になる笑顔だ。こういった大人にはなれそうもない。僕はすぐに感情が顔に出てしまうから、今の僕の気持ちも、きっと二人には手に取るようにわかるのだ。
〈……黙るのが吉、だゼ〉
ああ、その通りだ。僕は降りない肩の荷を抱えたまま、ふかふかの座席に背中を預けた。
19:58
夕方、日が落ちる前に高速道路に乗るも、気づけば夜も更けていた。あれ以降僕たちは特に会話もせず、適当にラジオ番組を聞き流すばかりだった。気づけばこんなに時間も経って、車に乗っている。隣にはすやすやと小さく寝息を立てている女神がいる。
窓の外に見えるのは高速道路を降りた先の、誰もいない国道の明かりだった。左右を森に囲まれながらも、最近整備されたばかりらしい美しいコンクリートを車が滑る。次第に道には傾斜がつきはじめたところで三十分が経ち、それから小高い丘に停まった。
「長旅ご苦労。さ、着きましたよ」
運転席からこちらに笑いかける久住さんは、足元に置かれている黒い鞄を持ち出した。僕もその後に続いて後部座席の扉を開けた。
「ここは?」
辺りを見渡すまでもない。目の前には月明かりに照らされた漆喰の壁と西洋風の窓ガラスが印象的な、四階建ての荘厳な建造物に目線が自然と向かう。
「日本神学協会第四支部、通称ニチヨンへようこそ」
久住さんがさらりと言う。しかし、その言葉の意味がまったく飲み込めない。飲み込みたくない。
神学を学ぶ学生と神学者だけでなく、神に仕える神職や熱心な信奉者で構成されているのが神学協会である。神と人、神と神、人と人の間を取り持ち、時にその情報を公開する第三のマスメディアだ。歴史は比較的浅いが、ほぼすべての神々に支援されている点で絶大な権力を持っている。
そんなところに僕が足を踏み入れるなんて考えられない。そもそも、簡単に一般人を同伴させていい場所ではないのだ。
「置いてくぞ?」
「え、あ。」
呆然としていたところを話しかけられて、鈴呂さんと久住さんが数十メートル先を歩いていたのに気づけなかった。僕は急いで入口の前で待つ二人のもとへ走る。鈴呂さんの右腕には眠ったままのオウカがいた。こてんと頭を彼に預ける姿は、見た目の年齢相応である。
「ここから先で見たもの、聞いたことはどうかご内密に。守秘義務契約をあとで結んでもらいますのでね」
久住さんの言う通りにしなければ、命はないと言外に言われているようだ。事実、ニチヨンは社会的な制裁は公的な手続きをもって僕個人に行うことができる。それは彼ら自身が権力の傘下にいるからだ。
観音開きの重い扉が、勝手に開く。そのすぐ奥には、認証カードが必要なゲートがあった。電車の改札にICカードをかざす要領で、前の二人がゲートを越えていく。
「ろくろ君はその印のところで立ってて」
久住さんが指を指したのは、僕の足元の白い床だった。扉とゲートの間に印された菱形の紋様が描かれている。言われた通りに僕はその印の上くらいで立ち止まった。
「行ってらっしゃい」
――その二人の言葉が最後だった。視界は暗転、足元は覚束なくなり、背筋を駆け巡るのは浮遊感。
「え」
という声すらも上がらなかった。死を覚悟するとは正にこのことである。
絶賛フリーフォール。落ちていく感覚で心臓がどきりと跳ね続ける。遠くなる天井。
今日は思えば散々な一日だった。三石の安否は知れないし、女神オウカとの一件も終わってはいない。
叫ぶことも忘れて、僕はいつの間にか意識を飛ばしていた。起きた時、僕がどうなっているのかなんて、まったくもって考えたくなかったのである。




