17:48
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一瞬、見えた光景。あれは少女がヒイロに食べられる直前の映像だ。
足元に目線を落とす。水の柔らかい感触が足先にかかり、桜の花びらが一枚、そこで留まっていた。桜が、散ったのだ。
「――おれは桜花、好きな人を泣かせてばっかだ」
ヒイロの声。つい先ほど、別れたばかりのその幼い声に、僕は思わず足元から目線を前方へ向けた。
広がる景色に、僕はどきりとした。そこには――ヒイロと少女が、いたのだ。
まず、なによりも目に鮮やかなのは桜だった。満開の枝垂れ桜が彼ら二人を守るように、突如としてそこに現れた。かくいうヒイロは、力なく倒れている少女の肩をしっかりと支えている。その姿は年齢に見合わず、たくましく見えた。
舞い落ちる桜の花びらたちは、神社本殿のほうから流れる深さ十センチの川の水に流され、僕らの足元を通り抜けたり、留まったりした。春の小川のせせらぎがどういうわけか作り出されていた。ヒイロも桜も小川も、爆発した箱がきっかけで現れ、僕らに小さな奇跡を見せたわけである。
「なんで、……ひぃ、くん、それ、わたしの名前……?」
ヒイロに触れているのを信じられないというように、少女は残った一本の右手でぺたぺたと彼の丸い頬や顎、鼻筋や耳などを確かめていた。輪郭をなぞりながら、ヒイロが本当にそこにいると理解した彼女は、その黒い瞳を揺らした。ヒイロと今生の別れをしたばかりの少女のことだ。信じられないのも無理はない。
包み隠さず言えば、実は僕も驚いてしまっている。幻のような景色が箱の爆発とともに出現したのだ、自分が死んだのかと錯覚したのも認めよう。しかし、それ以上に僕の目に飛び込んだ世界は凄まじいものだったのだ。枝垂れ桜に守られた二人が川が流れる中で見つめ合う光景ほど、夢物語はない。これが夢じゃない理由は、今のところないのが現状だった。
「桜の花からとったろう、おれの桜の女神様」
桜の薄い一枚が、ひらひらと落ちてくる。それを右手で捉えたヒイロは、少女に贈り物をするように鼻の上へちょこんと置いた。
それは一陣の風に吹かれ、足元を流れる川へと落ちた。僕の方へその桜の花びらが流れてくる。
少女の名前は、オウカ。桜の花と書いて「桜花」と書くらしい。きっと過去にヒイロが名付けたのだろう。
ついさっき、少女の体内で僕と行動していた彼は、彼女の名前が言えなくてべそをかいていたのに、その念願も叶った。それはなぜか。
僕とザガンで見つけたあの様子がおかしかった百人一首の一首。藤原義孝の後朝の歌。
上の句は『神話』の箱の中にあった貝殻の一枚に吸いこまれた。下の句はヒイロの魂の中に入った。ヒイロは別れ際に言った。
――外に出たら、これであの歌を贈って。おれは逃げないから。
この言葉は、ヒイロ自身が彼女に触れるための言葉だったのだ。彼の中で何をどう思ってあの歌を贈ろうと思ったのか、僕は知らない。少女の胸に大穴を開けていた何か。その何かの根本原因まで、僕ら部外者には知る由もない。
「ひぃくんの名前は……?」
恐る恐る、少女がヒイロの顔色を伺いながらか細い声で訊ねた。ヒイロは腕の中で衰弱する少女の頬を優しく撫でた。そのまま、右の人差し指は空中に向いた。一画目は真っ直ぐ下に、また一画目の入りに戻って、二画目は小さく真っ直ぐ横に、三画目はその少し下に……という風に、ヒイロは何もない場所に文字を書いていく。
そうして最後の一画まで書き終えた。僕にははっきりいって何が書かれているのかわからなかった。それもそうだ、こちらから見ると彼が書いた文字は反転していたのだから。
「日、色……」
「うん」
空中に書いた文字は、「ヒイロ」を表すようだった。ヒイロという音に当てる漢字を教えていたのだ。
「お天道様の色、っ、日の色、日色……すてきな名前」
少女の言葉が聞こえて、僕は察した。ヒイロという字は、太陽の色と書いて日色だと。
少女の身体が小刻みに震え、黒い瞳から大粒の美しい涙が流れた。春の小川のせせらぎよりも美しい光を反射し、胸いっぱいの歓喜がここら辺一帯を躍らせた。
女神の力だ。神の序列の底にいてもなお、人とこんなにも違う力を持つ。
「ろくろ」
ヒイロに呼ばれ、小走りでそちらへ駆け寄った。近づいてみるとより分かる。少女の満身創痍な姿と、彼女を大切に想うヒイロの穏やかな様子。特に、ヒイロの瞳の色が変わっていた。青い青い空よりも、澄み渡った水色だ。確か、ヒイロの瞳は灰色だったのに、いつの間に。
ただ、理由はなんとなく分かった。彼女の胸にぽっかりと空いた大きな穴は、ヒイロの言葉で埋め尽くされたのだ。僕は結果として何もしなかった。というより、できなかった。ただ二人の物語に登場しただけで、物語の根幹には微塵も触れられなかった。結局、ヒイロがどうにかしたのだ。
「日色」
「はは、なんか、生きてる感じがする。迷惑も世話もかけた」
彼のはにかむ笑顔が眩しく見えた。僕は脇役らしく、彼らの影にならないところに片膝をついた。ヒイロや少女と同じ目線で話すべきだと思ったのだ。
枝垂れ桜から落ちる小さな花びらが、僕と二人の間を舞った。その隙間から、ヒイロは今までにない優しい口調で言った。
「ろくろ、今おれは上手く身体が使えない。だから、彼女に名前をつけてやってくれ」
名前をつける。意味がよく分からなかった。
少女には桜花と書いてオウカという名前がある。僕がまた新たに名前をつけなければならないというのか。それはなんとも、ハードルが高すぎる。
「名前をつける? もうついてるんじゃ、」
「そこからじゃなくて! ……おれの代わりに、それで彼女を生かしてくれ。名前を、刻みこんであげてほしい。……おれにはできない」
ヒイロは少女に目配せをした。少女の不安そうに揺れる視線が意を決した。
咲き誇る桜が女王の誕生を待ち望む!
クラシック第一弾! 桜花賞!




