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万年筆のキャップを外し、胴軸にそれを被せた。カートリッジ式の万年筆だとしても、貝殻に文字は書けないのは常識だ。でも、理解した上で僕は一筆入れてみたいと思った。
なぜなら、この桜色の万年筆は神造物、『神話』の世界で手に入れたものである。貝殻にくらい文字を刻める、そんな期待が自然と湧いてくる。
とん、と軽い音を立てて、ペン先が触れた。やはり無理か……と諦めかけたところで、白地の貝殻に、ある変化が表れた。
波紋のように波打ち、渦潮のごとき流れでみるみるうちに万年筆を喰らっていくではないか。これには僕も、少女も、果ては数メートル先の後ろに控えていた二人も呆気にとられた。
万年筆がすべて吸い込まれてしまうと、待ち侘びていたように貝殻が飛び上がった。意志でも持っているのだろうか、元々入っていた正方形の箱に納まると、その箱は空中で段々と大きくなった。
上空にあるそれは風船のようにみるみるうちに膨らみ、結局その箱は僕らの頭上を覆った。大きくなり始めてから三秒ほどで、それは極限を達したらしい。
「爆発するぞ! 伏せろ!」
後方から切羽詰まった男の声が響く。僕は反射的に頭を腕で守り、地面に伏せた。
彼の声がしてすぐに爆発音。ガラスが割れたような音と、花火が開いたような音が混ざり合う。
世界が変わった――ような音だった。今までに聞いたことのない不思議で暖かい音。
僕の見たままなら爆ぜたのは『神話』だ。もしかしたら、少女は死んでしまっているかもしれない。そんな暗い不安が押し寄せて、僕は瞼の裏の暗闇に逃げた。
少女が死んだら、僕はヒイロとの約束を果たせない。殺そうとして僕を体内に入れた少女も、それに加担して牙を剥いたヒイロも、到底許せるものではない。しかし、確かにあの時、僕はヒイロとカルタ遊びに興じたし、少女の惚気を聞いたりした。袖振り合うも他生の縁、触れ合ってしまえば最後、彼らの面倒を見てしまいたいと思った。
エゴイストでもあるし、自分勝手でもあるし、お人好しでもある。今まで十数年生きてきた中で、自分がそういう人間だと確信したことはない。だが蓋を開けてみればどうだ。僕はエゴイストだし、自分勝手だし、お人好しだったのだ。
ふと、伏せた地面が水で満たされたのが分かった。冷たい春の小川のような、優しくて穏やかな水。僕はすぐに顔を上げ、立ち上がった。
2010年2月9日8時12分、ある冬の日
今日もきれいな女神様がおれの横にいた。おれはヒイロなんて名前だけど、「ひぃくん」って呼ばれると、理由はわからないけれどとても心がおどるんだ。
「ひぃくん、体調だいじょうぶ……?」
今日も布団の中にいるおれを起こしに来てくれた。黒くて長い髪は彼女の自慢で、寒い冬なのにポニーテールにしていた。神たるものオシャレにも気を配らないと、と豪語していたけど、おれがやってあげたほうがきれいに結ってあげられる。そういうところもかわいいなとおもう。
「うん、元気。ありがとう、……」
おれはまたこみ上げる咳がつらくて、元気って言ったのに咳こんだ。そして、毎回彼女は心配そうに眉を下げて駆け寄ってくるのだ。それがすこし嬉しい。
「ひぃくん!?」
「ごめん……少し、寝かせて」
実際、つらいのは本当だった。時々身体を動かした方がいいと病院の先生には言われるけど、寒いし咳もつらいしやる気が起きない。昨日も夜遅くまで本を読んでいたから、より眠気が勝つ。
「ここ最近ずっとお咳が続いてるよ?」
「……うん」
彼女の説教はそれなりに長い。下手をすれば母親よりも長い。
それは彼女が女神様だからなのかもしれないけど、正直身体がつらいときの説教ほどきついものはない。おれはいつもよりも百倍体調が悪そうな芝居をして、布団に深く潜り込んだ。頭を入れてしまえば、寒くないからいい。
彼女とは去年の夏から一緒にいる。出会いはこうだ。七月なのに日照りが強く、熱中症になってしまいそうな日。彼女はおれの家の目の前の道路で暑さのあまり干からびていた。それを拾ってあげたのである。聞けば彼女は女神だと言うし、ますますばかばかしいとおもったけど、手品のような魔法を見せつけられて即信じたところからはじまる。あのとき見せてくれたのは、道路の上の蜃気楼をキリンの形にしたり、車の形にしたりする魔法だ。はっきり言って蜃気楼そのものだから、形の変化がわかりづらかったのを覚えている。
そんなほがらかな出会いから、おれたちは共に過ごすようになった。楽しい日々が長いこと続いた。しかし、それをこわしたのはおれだった。去年の十一月ごろから肺を悪くしてしまったのだ。
申し訳なさや不甲斐なさでいっぱいだった。まだ駆け出しの女神に、病気は神には移らないからと、おれの看病をしてもらっている。
アホだ。救いようのない、アホ。
「ねえ、ひぃくん。わたしね、ひぃくんと桜見たいって思うよ。それでね、考えたの。ひぃくんと桜を見るために、ずうっと見ていられるように……」
彼女が独り言のように話しかけてくる。おれは布団を被って視界をシャットアウトしているから、うまくは聞き取れなかった。でも、彼女が桜に執着しているのは知っている。短歌や長唄が好きで、少し古めかしい文化を愛する彼女は、めちゃくちゃ桜が好きだった。季節の花に対する知識は十分にあるが、特に桜は昔の人の歌の中に入っているらしい。
そうだ。おもいだしたことがある。おれは彼女とカルタをするために百人一首とやらを覚えている最中だったのだ。ばれないように箪笥に押し込んだのをすっかり忘れていた。
いつもなら、彼女はおれへ少しだけ小言を言ったあと、すぐにこの部屋を出ていく。彼女が出ていったら、箪笥からまたこっそり百人一首を出して覚えてやろう。
きっと、喜んでくれる。そう、確信してる。
「――わたしが、春になる」
その言葉で、おれは眠りに落ちた。それからおよそ四年間、おれは彼女の体内で人を捕まえて生きることになった。境内にいつも人でできた桜が咲く、不気味な神社を根城にして。




