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「開けた場所は!?」
「病院の外に公園が!」
痺れを切らしたザガンが、ヒイロを担いで走り出した。ヒイロの指さす通りに病院の待合室を抜け、病院から出る。送迎レーンを通り過ぎ、すぐ目の前に子どもが充分に遊べるであろう小さな公園があった。
黒い塊は未だ僕らの真後ろを這って、蟲や蛇のように細かく蠢いている。その速度もだんだんと遅くなっていた。少女の体力が尽きかけているのだ。これはチャンスと言わざるを得ない。
「少女を足止めして、ヒイロと直接話す機会を作りたい! ザガン、どうにかしてくれ!」
「無茶言い過ぎだロ!? どうにかっテ。しかもヨ、それが上手くいく保証はあんノ?」
「ない!!」
「自信だけカ!」
「自信もない!!」
「よぉシ、小僧、あとで痛い目見てもしらねぇゾ!」
我ながら適当なことをふっかけていることは自覚できている。しかし、僕は人間で何もできないし、ヒイロにそういったことはさせたくはないのだ。僕の無茶ぶりを許してくれと思うも、この数時間である意味百点満点の立ち回りをしているのがザガンである。
右肩に抱えられたヒイロが、どさりと砂の上に落とされた。またしてもネクタイの裏から出てきた銀色の銃身。銃口を真っ直ぐ減速し続ける動く黒い塊に向けた。人差し指が引き金に添えられ――
カチリと軽い音がした。それから一回ならず三回、四回とカチリカチリと鳴る。その間にも、黒い塊は病院を出て僕らのいる公園まで入ってきた。
僕は思わずザガンを見た。ヒイロも僕と同じ眼差しのようだ。そして、どちらともなく声が出ていた。
「……おい」
「っテ、弾切れダ☆」
沈黙すらも起きる暇がなかったのは、ザガンには幸いしたことだろう。弾切れ、という不穏な言葉が耳に入ってくる頃には、黒い塊が僕らを呑み込まんとするほど近くにいるではないか。
ザガンはともかく、ヒイロとともに逃げなければ。そう思うと身体が先に動いた。
しかし、ヒイロがさっきまで蹲っていた場所に、彼はいなかった。どこに行ったのかと辺りを見渡すと、一人黒い塊に走っていた。
「ヒイロ!?」
「大丈夫! 信じて!」
僕の呼びかけに振り向きもしないヒイロは両手をすっと広げた。秒速二メートルで近づくその塊が、高く高く頭上の数十メートル上に飛び上がったかと思えば、遥か空でぴたりと動きを止めた。
今のうちにヒイロを助けてやるべきだ。けれど、僕の動きを止めたのはザガンだった。
「これで死ぬなら本望だ!」
少女をいよいよ待ち構える体勢だ。ヒイロはこれから彼女に殺されることも厭わない様子だった。僕たちと逃げている間、心ここにあらずなのも、納得ができた。ヒイロは少女に殺される決意をつけていたのだ。
黒い塊と、少女の私怨で逆立つ髪が同化していた。怒りで我を忘れ、頬を引くつかせ、口元を痛いほど噛み締めている。そして、少女が叫んだ。
「あるはなく なきは数添ふ 世の中に あはれいづれの 日まで嘆かん!」
その一声を皮切りに、黒い塊を従えて少女はヒイロ目がけて落ちていく。僕はそれを見ているしかなかった。もし、彼を止められたとしても僕にはどうしようもなかった。手詰まりの状態で、自ら物語を進めようとするヒイロの原動力はきっと怒り狂う彼女の存在だけだ。
真っ逆さまに落ちてくる少女の手には、きらりと小さな小刀が構えられていた。それは、僕が捨てた小刀とよく似ていた。ヒイロと少女がほぼゼロ距離になりそうな時、黒い塊が視界の邪魔をする。液体のように流動し、しなるそれは、津波となって僕らをも呑み込んだ。
温かいが、じっとしていると叫びだしたくなるほどの灼熱だ。僕は耐え切れなくなって、身体をぐっとその場で丸めた。それからしばらくすると、その熱さは引いていく。代わりに肌をつんざくような冬の風が吹きつける。寒いと思ったが、その世界は馴染みがあった。
ゆっくりと目を瞬かせる。日の光りに反射して、雪がまばゆい。そして、畳の良い匂いがした。
「ああ、起きたんですね」
「……君は」
「ふふ、わたしです。名前のない、めがみさま。なんちゃって」
冬の日、ヒイロと少女がいたあの日本家屋と全く同じ一室に僕らはいた。ザガンの姿もヒイロの姿も見えない。僕と少女の二人だけが、縁側に百人一首を並べて対面している。
少女は怒りの片鱗など欠片も見られなかった。朗らかに笑い、時々冗談を飛ばす幼くも純粋な女の子だ。
これは一体、どういうことなのだろう。僕はなぜここにいるのか。もしかしたら、黄泉の国だとでもいうのか。
「緊張しないでください。ここは、わたしがあなたたちを守るために作った安全な場所です」
目に見えて緊張し、不安がっている僕に、少女は笑い混じりで言った。あなたたちというのだから、ザガンもきっとどこかにいるのだろう。奴のことだ、そう心配しなくてもよさそうだ。
どこからともなく鳥が囀る声がして、美しい庭に小さな猫が歩いている。静かで豊かな光景に、胸をなでおろした。
「今、外でひぃくんが必死にわたしを起こそうとしてくれています。なんだか、それが嬉しくて」
はにかみながら、少女は僕に一つの映像を見せてくれた。それは少女の右手が空中に描いた円の中に映っていた。
そこには、ヒイロが周りの蟲や蛇を追い払い、眠る少女を起こそうとしている様子があった。身体はヒイロの前にありながら、意識はこちらにあるのだろう。ヒイロが知ったら、悲しむに違いない。あんなに必死になって目を覚ますのを祈っているのに、当の本人は関係のないところで笑って眺めている。神は人知を超えた存在だと言われるけれど、まったくこういったところに壁を感じる。少女も立派な女神様だというのは、あながち間違いでもないのだ。
「君は、わざと僕たちを君の『神話』に閉じ込めているのか?」
「……そういわれてしまうと、そうかも、ですね。わたしは、ひぃくんの信仰心だけで生きているんです。でも、それだとすぐに死んでしまう」
ここに来て、僕が少女に感じた違和感の正体が分かった。彼女のメンタルは非常に安定しているし、神らしい倫理観の無さを置いておけば普通だと言っていい。それなのに、他の神に見つかれば殺されることが間違いない神隠しという行為を、喜々としてやっているのはおかしい。僕が見たあの夏、秋、冬の記憶たちが本当なら、少女はそんなことに手を染める性質ではないのだ。




