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「ヒイロ、目が覚めたんだな?」
十センチほど下にある目線と平行になるように膝を曲げる。ヒイロは僕の目を数秒ほど見つめた後、ぎこちなく目を逸らした。
「うん、なんか、迷惑かけた、かな? そうだったらごめん……」
ヒイロは申し訳なさそうに笑い、それから軽く頭を下げた。怖いだろうに無理をしているのが、肩の震えから分かる。
「謝られても。ヒイロが無事ならいいさ。あとはここから出るだけ、」
「……ろくろ」
「ん?」
肘部分の布をゆるく掴まれて言葉を止めた僕に、ヒイロは続けて言った。
「◆◆◆を、◆◆◆、っくそ! 名前が、」
意識の戻ったヒイロにすら、彼女の名前にノイズがかかる。苦い顔をしながら必死に呼ぶ少女の名前も、全てノイズに成り果てた時、ヒイロの瞳から一粒の涙が落ちた。
「――あの子の名前を、呼んであげたい……!」
搾り出すように出た言葉は短い。ヒイロはそれを言う終わる前に、塞ぎこむようにようにしてその場へへたりこんだ。腕で顔を完全に覆い隠している。先ほどよりも大きく震えた肩が、ヒイロが小さく泣いているのを伝えてくる。
僕は、ヒイロを助けるためにここに残っているし、危険にも飛びこんだ。それは、僕がしたかったことであり、義務でもあるからだ。もし、僕じゃない誰か……例えば、川北なんかが巻き込まれたら、ヒイロを助けることも、自らが助かることもなかった。僕がここで息をしていられるのは、ヒイロを助けろという説明できない巨大な力が動いているからなんだ。
そこまで考えて、僕はヒイロの涙を拭ってやらなければならないと気付いた。塞ぎこむ彼の右肩を優しく二回叩く。
「ヒイロ、少女の名前、覚えてないのか?」
「覚えてる。覚えてるはずなんだ! でも、でも、言葉にしようとすると、邪魔が入って……◆◆◆、また!」
少量の涙が歪な神核の光を反射する。ヒイロは自分の服の袖で、それらを力任せで拭ってしまった。
神の名前は絶対的だと聞いたことがある。神の死に伴う名前の消失は、体感的に名前を覚えている人間に対しても作用する。それは、名前を言おうとしても言えない現象となり、世間からその名前の痕跡すら見えなくなっていくのである。
「ろくろ、その、右手の……」
「右手?」
鼻水を一回すすって、ヒイロ少年は僕の右手を指さした。そこには、バグが書かれていた札が姿を変え、そこにはあった。飛んでいった取り札のほうに気を取られて、読み札の異変に気付かなかったのだ。
握り込んだ手を開き、それを確認する。桜色の万年筆の金色のペン先が光っていた。側面に名前の刻印がなされているようだが、何重にも線が引かれ、文字が読めないようになってしまっている。
興味ありげにのぞきこんでくるヒイロに万年筆を渡した。すると、ヒイロは数秒見つめた後、一つ溜息を吐いた。
「これ、僕が彼女にあげたんだ。名前も彫ってもらったんだけど……やっぱり」
ヒイロが目に見えて落ち込んでいる。記念日に少女へプレゼントでもしたのだろう。
「でも、どうしてこれをろくろが……まあいいや、理由なんて」
万年筆を大事そうに握りしめた。幾分、先ほどよりも落ち着いたらしい。
もうヒイロは大丈夫そうだ。僕はとりあえず、少女をどうするべきかを考えるために彼女のほうへ視線をやった。その時だった。
少女がその明るい顔を上げ、こちらにしっかりと焦点を当てた。優しい垂れ目が、だんだんと鋭くきつい眼差しを向ける。さっきまで微笑んでいた少女の姿はそこにはなく、怒りの感情だけがありありと伝わってきた。
「わたしから大事なものを、奪ってばっかり……殺してやりたい」
ぽつりと呟かれた殺意に、僕は反射的にヒイロの手をとって屋上のドアへ走っていた。
少女の表情は見えないけれど、その声音がヒイロと話していた時の優しいものじゃないことは分かる。玩具を取られた子どものように、少女は僕らを怒りのまま追いかけてくる。
屋上から屋内へと続く扉を抜け、階段を駆け下りる。半ば落下するように階段を何段も飛ばして逃げた。ヒイロの手を無理に引くこともできず、少し遅れてついてくる彼を心配しながら走る。ザガンは僕たちよりも何段も先に行っていた。
ぞわぞわと無数の蟲や蛇なんかが這う音がする。黒い塊になって追いかけてくるから、それが何によって構成されているのかは知らない。なにより、知りたくもないのだ。
「どうするの、ろくろ! このままじゃ!」
息を切らしながら精一杯走っても、未だ少女の追手は撒けない。八階建ての総合病院内をぐるぐると逃げ回っていても埒が明かない。既に僕らは三階まで下りてきてしまっていて、このまま逃げるなら病院から出たほうが挟み撃ちの心配もない。しかし、受け身の姿勢はいずれ身を滅ぼしそうだ。
「どうするって……おい、ザガン!」
「俺様も知らねえっテ! バグ札に書いてあった歌に意味があんじゃねえノ!?」
僕らよりも数メートル先を走り続ける唯一の人外に無理矢理投げかける。流石のザガンも、この状況に焦っているようだった。
「歌ってなに!?」
「歌か!」
万年筆へと姿を変えた上の句が、恐らく僕らに残されたたった一つのキーアイテム。下の句はヒイロを目覚めさせるのに強制的にだが、使ってしまった。
現在、下の句はヒイロが持っていることになる。本人にその自覚はないようだけれど、僕は確かにこの目でヒイロの魂に取り札が浸透していくのを見た。
「ヒイロ、さっき君の身体に、とある歌が入ったんだ、分かる?」
「うた……」
「それが君を自殺の連鎖から救った。だから今こうして、」
僕でもザガンでもない。ヒイロが目を覚ますことができたのは、あの一枚の札のおかげだ。
必死に走ってだいぶ辛いだろうに、少女と己のために必死に考えている様子だった。息を荒くして大声で言った。後ろには三メートル先に黒く蠢く何かが迫ってきている。そこに少女の姿は見えないが、予想が正しければその黒い塊の中にいるのだろう。
「なんにも思い出せない! でも、でもだよ! なんかね、彼女に伝えたい言葉が喉まで出かかってはいるんだ! それなのかな!?」
「それに、賭けよう!」
後先考えてなどいられない。どんなに脳を動かしたって、行動しなければ開ける道も開けない。それに、相手は少女と言っても神様だ。こちらが彼女をなめてかかれば、彼女は簡単に僕らの首をはねてしまえる。
真正面から戦うか、不意打ちか。そもそも、戦うという選択肢が正しいとは思えない。
ヒイロと話していた時の少女の笑顔を思い出す。穏やかで自然を愛する少女が、大好きなヒイロを殺せるわけがない。殺してほしくない。ロマンチストと言われれば、否定はできない。
ついに一階へと下りきった。汗だくで、足も覚束ない。日頃運動していないつけが廻って来たのだ。




