??? 5
「ザガン! オッケーだ!」
「おめでとさン!! 砂時計まで走レ!」
そう言って、拳銃片手に黒い影をやっつけるザガンが空いた左手で指さした。さっき砂時計を拾った場所と同じところにそれはあった。桜色の砂が入った、数十分前に壊したものとまったく同じ色と形をした砂時計だ。
僕は銃声鳴りやまない中、走った。十メートル先に一足早く動いていたザガンの背中が見える。『神話』内で死ねば、現実でも死ぬという。それだけは御免だった。
「ザガンも、ってぇぇええ!?」
ふと、足が浮遊感に呑まれた。僕は内臓が絶対零度に晒される気分で自然と泣きそうになっていた。なぜなら、僕の足元にあったはずの畳や床、天井の残骸がすっかり消えていたのである。
僕の絶叫にザガンも思わず振り向いたらしい。これまでにないほど間抜けな顔でこっちを見ていた。
「ハ? はぁぁぁア!?」
「地面が!?」
消えていたよりも、落ちていったが正しいだろう。地面よりも深いところに吸い込まれていくようで、形容するなら蟻地獄、体感はバンジージャンプと同一だ。どちらも経験したことはないけれど、完全に消えていない足場も、あと五秒もすれば崩壊し、跡形もなくなる。
嫌な妄想が脳裏を掠めた。しかし、手を差し伸べてくれたザガンに、ああまだ生きているんだなと思えた。
「チッ、掴まレ!」
差し伸べられた手に掴まろうとするも、距離があって物理的に難しい。瞬間、僕の心は完全に折れかけていた。折角、こんな危険なところに戻ってまでつきとめたものが全部失われてしまう。そんな絶望と同時に、僕はどうしても消すことのできない燃えるような心が沸き上がるのを感じた。
――ヒイロ少年に歌の意味を今度こそ教えてやりたい!
もし本当にあの歌が運命的な意味をもつのなら。現実的にヒイロが自殺したいと思っていも、それは少女がいる限り、起こらないことなんじゃないのか。
「あっ、」
柔らかな暖かい日の光、そんなものが身体の辺りを擽った。途端、僕の身体はほんの少しだけ、ザガンの伸ばす手に近づいていた。
「掴んダ! 離すなヨ!」
がっしりと掴まれ、引き上げられる。僕は思わず下を見ていた。
そこには、黒い影がいた。僕たちを襲ってきたものと一見変わりないが、纏う雰囲気自体が違った。影だから顔も見えないし声も聞こえないけれど、喜んでいるように小さく手を振ってくれる。その時、何となく理解した。僕は今、女神様に助けられたのだ、と。
「トンズラするゼ!」
ザガンに助けられた僕は感覚の鈍い足で走った。走りの遅さに痺れを切らして、拳銃から弾丸が放たれた。
ガラスが割れる音と、砂が流れる音がした。そうして例に漏れず、僕らは元いた病院の屋上にいた。
「っ、はあ、ザガン、無事?」
息を切らしつつ、隣で同じように伸びている友人に声を掛けた。二人して大の字になって寝転んでいる今、空はとても青く澄んでいる。精神的にも肉体的にもそれなりに疲労を蓄積していたからか、偽物の空でも清々しい気持ちにさせてくれた。
少女とヒイロがいた場所を探す。方向感覚が狂っていて彼らがどこにいたのか覚えていなかった。ぐるりと視線を回すと、彼らはそこにいた。
少女はヒイロの魂なるものを抱えているし、ヒイロ少年はぎこちない動きで屋上から落ちていく。身投げしたヒイロはまた落ちる前と同じ姿で立っている。これといって何か変化があるわけではなかった。
「てめえの方こソ」
僕と違って息切れもしていないザガンは、間の抜けた声でぼやくように言った。僕は疲れてすぐには動きたくなくて、胸ポケットを探ってみた。指先に当たった札は理由は分からないけれど二枚入っていた。それを取り出してみると、まるで答え合わせのように下の句「ながくもがなと 思ひけるかな」が書かれた取り札があった。
「……女神様に、借りを作っちゃったかもしれない」
「ハア?」
思わぬ女神の贈り物、そう捉えてしまっていいだろう。これを使えと言われているようだった。
「うん。やるぞ、ヒイロ少年を、助けるために」
充分すぎるほど休んだ気がする。身体も精神も軽かった。すぐに身体を起こし、埃や砂で汚れたところを軽くはたきながら立ち上がる。
「デ、どうするっテ?」
まだ寝転んで空を見ているザガンが、呑気に声を掛けてきた。僕は質問の意図が分からなくて、唸るしかなかった。
「うーん、……うーん?」
「考えとけヨ!」
「いやあ、ザガンが乗り気だったから」
何も考えていなかったのである。ザガンも乗り気だったし、勢いでどうにかなりそうな雰囲気というか、僕の感情が先走っていてそこまで考えていなかったのだ。
バグ札に書かれた内容さえ分かれば、
「ン? 小僧、一枚札が増えてんじゃねえカ」
右手にバグ札を、左手に取り札を持ち、交互に観察する。時に裏返したり、振ってみたり、色々なモーションをかけてみた。
「ああ、うん。これ、あの少女からだと思う。たぶん……あっ」
「ア?」
手の内にあった札が小刀に変化した時のように、形が変化していく。左手にあった取り札がひらひらと宙に舞って、結果として残ったのは右手の読み札の方だけだった。飛んでいった取り札を目で追うと、それは二人の方に向かっていく。空中で弧を描きながらするすると近寄り、その札が真っ直ぐヒイロの魂に入り込んだ。
「……あれ?」
まるで夢から醒めたばかりのようにヒイロが僕らの方へ振り返って首を傾げた。丁度、ヒイロが再び柵に手をかけ重心を外側に傾けたタイミングだった。少女が抱えていた光る魂が、少女の腕の内から消えている。それでもなお、少女の表情や撫でる手の動きは変わらない。どうやら僕らに気づいたのはヒイロだけだったらしい。
「おれ、なんでここにいるんだ……? ろくろ、この子は……どうして」
少女と僕を交互に見て、ますます状況が理解できなくなったらしい。薄く汗をかいた肌が妙に白い。混乱と不安で体調が悪くなりかけているのだ。僕はヒイロを安心させるために、よろよろとこちらへ歩き出した彼のほうへ駆け寄った。




