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「これをこうット」
ザガンの右手人差し指の爪が伸びた。鋭利で皮膚なら簡単に切り裂けそうだ。爪を伸ばしてどうするのかと観察してみる。
僕の左腕を掴み、掌を開くよう促される。生命線近くを横切る爪が――
「え、ちょっ、」
「我慢」
その一言を皮切りに、皮膚が切れた。切り傷が三センチほどできあがり、後から鈍い痛みがやってくる。血が僅かに溢れる。僕は抗議しようと口を開くも、動いたのはザガンが先だった。
バグ札の文字化けしている方を血に触れるようにして置かれる。まったくもって意味の分からない行動に首を傾げる。五秒ほどそれを無言で眺めていると、バグ札自体が大きく揺れ始め、遂には光を放ちながら形状が変化していく。
「バグにはシステムを破壊する力があるからナ、その凶暴性を物質化しただけデ、あとはソレを女神につき刺せば終いダ、殺レ」
長方形の一枚の札が、血の色に溶けたかと思えた。しかしすぐに小刀へと形状が変化し、持ち手部分が僕の掌と離れなくなってしまう。血液がかさぶたのように凝固し、煤けた小刀をしっかりと固定する。
この小さなナイフで、少女を殺す。馬鹿げた話だ。相手は腐っても人外、女神なんだぞ。
そう過っても、少女をこの刃で殺せるようなきがした。刃先の鋭利さや刃そのものの研がれ方に禍々しいものを感じる。これといって目立った装飾もない、安価な小刀を凝視しながら、僕は沸き上がる不安をぶちまけた。
「……それだと、あの子はどうなるんだ」
少女を見つめた。バグまみれで所々身体が削れてしまって、壊れたネオン管のように消えた左足が復活すると、代わりに右腕が消える。光が点滅するように、身体の一部が消えたり復元されたりを繰り返す。記憶も記録も、少年や少女が壊れたままでいいはずがないのだ。
「アァ? 死ぬに決まってんだロ。ロクに信仰も集められねえ神ガ、生きていけるわけはねえしヨ。政府や上位の神に殺されてエンド、ってなワケ、なんなら俺様でも殺せるゼ」
信仰は神の生きる力、餌をとれない動物は死ぬ。しかし、今の状況は単に僕が殺生をするだけだ。簡単に命を奪って、あのまま生きていても無意味だから殺したと宣うのは、人間道徳に反している。
「ヒイロの魂は、どうなる? 彼女が死ねば、身体を持たない魂は、」
「それも消えル。晴れて現実世界のヒイロも死ぬってナ。わかってんだロ?」
理解ができても、納得ができないことはある。ザガンの行動を見る限り、彼が僕の友達で、旧知の仲なのはわかったけれど、同時に僕とは違う存在なんだと実感させられた。
わかっているんだ。ヒイロの魂がこの世界にあった状態で少女を殺したらどうなるかなんて。想像が容易いからこそ、僕は人並みに躊躇した。
左手から離れない小刀をもう一度見る。これで、少女を殺す。文字化けした札には、百人一首のうちのどれかが印字されていたはずだ。僕が悲しいと思うのは、二人が大切にしていた百人一首が目に見える原因で、それを使って少女の命さえも断ち切れるところだった。
ヒイロ少年の言葉を思い出す。少女と、少女の好きなものに対する言葉たちだ。
――でも、おれ、あのこにおれのことが好きって、大好きっていってもらいたいんだ。あのこは俳句とか短歌とか、言葉が好きで、
好きな人の好きなもので、その子を殺す。無理だ。
――だからその、百人一首、おぼえたくて……
わざわざ打ち明けた本音。勇気を出して僕に言ってくれたヒイロの表情。
――あのこよりも、強くなりたいんだ
澄んだ瞳に、灰色の雲は消えていた。今ならはっきりと見える。少年の瞳は空の色だった。
あの時感じたものの中に、物騒なものなんて何一つなかった。僕が感じたのは、少女に対する純粋な好意と羨望。文字化けしてしまったこの札の内容は分からないけれど、歌が書かれていることだけは分かる。
十分すぎる理由だった。札が変形して小刀になって、あの少女くらいなら殺すことができるとしても、僕には選べない選択肢だ。
「ザガン」
「ンだヨ」
世界の仕組みをよく知りもしない。同族であるザガンのほうが知っていることも多い。
彼が僕に迫っている質問は、僕には受け入れ難いものだ。大人しく従えるほど、聞き分けられない。この際、僕は我儘になってしまえばいい。
「この武器は、この札は、神を殺すための道具じゃない。これは――ヒイロ少年の気持ちそのものだ」
ぎゅっと小刀を握りしめる。左手からは滴るほどの血が、僕の制服を汚した。僕が流した血と同じ色のものを、ヒイロも流す。ヒイロのことを本当の意味で理解できるのは、人間である僕なんだ。
「……何言ってんダ」
「バグは確かに今、目の前で起こってる。幾度となくヒイロが自殺して、少女が止めるシーンから先に進まない。けれどそれがウソなんだとしたら、本当の景色を、僕は見てみたい」
どれだけの言葉を尽くせばザガンに届くかは知らない。僕は静かに彼を見つめた。
「助けるってのカ、女神ヲ」
ようやく示した反応は、呆れだった。それでもよかった。
ヒイロを助けられる道があるなら、模索する他ない。僕の当てずっぽうが本当にアタリなのか、確かめてみなければいけないだろう。すげすげと尻尾を丸めて逃走する以外なら、なんだってしてやりたいのだ。
「僕はヒイロを助ける。彼の恋を、僕は願うから」
恋を願う、なんておかしな話だ。でも僕は、願いたいままに願う。そして、そのための努力を惜しみたくはない性質だ。
「このバグの全貌さえ分かれば、それはバグじゃなくなる」
「そうだけどヨ」
若干引かれている気がするけれど、構うもんか。決めたらあとは実行するだけだ。
「ザガン。もう一度、あの冬の家へ戻るぞ!」
「リョーカイ、好都合ダ。戻るにはまた砂時計をだナ、」
座り込んだ少女の真後ろに倒れた砂時計を見つけた。ザガンが話し終わる前に、僕は砂時計のほうへ近づき、手に取った。先ほどの桜色のものとは違う、白い雪のような砂が上から下へ落ちていた。僕はそのガラスのくびれ部分に小刀の先で思い切り突いた。
ぱきりと音がして、砂が流れ出て、僕の視界も完全に光に覆われた。急いで走ってきたザガンが僕の右の肩に置かれ、本格的に音も景色も変わっていった。
白い雪が積もる寒々しい日本家屋に戻ることができて安心した。肉塊によって崩壊した箇所はそのままだが、足元には百人一首の札がバラバラに散らばって落ちている。
「僕は残りの札を見つけるから、ザガンは」
「あいヨ、振り向くナ」
ネクタイの近くからどこからともなく取り出された銀色の拳銃が雪の光で白く見えた。肉塊から相変わらず生み出される黒い影のことを任せて、僕はその場にしゃがみこんだ。
「了解、頼む」
短く返事をして、破れた畳の上に散らばった札に手を伸ばした。埃を被っているものもあり、文字が読めるようにとそれを手で払う。
読み札も取り札もごちゃごちゃに混ざってしまっているし、時間がかかりそうだ。とりあえず、視覚的に整理しやすいように、読み札と取り札を分ける。分けるのにも時間がかかるが、思いの外まとまっていてものの三十秒で作業は終わってしまった。
次に、読み札を適当に並べてしまう。百人一首は決まり字というテクニックがある。上の句が書かれた読み札の頭文字と、下の句が書かれた取り札を対応させられれば、勝負は簡単に決まる。ヒイロにもそのことを教えてやれば早いのだろうけど、決まり字だけを覚えても面白くはないのである。
「むすめふさほせ、うつしもゆ、いちひき、はやよか」
頭文字で簡単に振り分けてしまえば早い。そうと決まれば手が勝手に動いていた。百人一首において頭文字「あ」の札が十六枚と一番種類が多く、反対に頭文字「む・す・め・ふ・さ・ほ・せ」はそれぞれ一首のみが存在し、覚えるのも楽である。単純にこれらを覚えていれば、百首のうち、どの札がないのかは頭文字を割り振って数を数えれば自ずと分かる。最初からこうしてしまえば良かったのだと今気づいた。あとはスピード勝負。反射的にあいうえお順で読み札を並べてしまえばいい。
「チッ、なんだよこのクソ女神どモ! 小僧、どうダ?」
「あともう少し!」
「あともう少しカ! 俺様、もって三分!」
三分なら間に合う。そう自分を信じて、必死に頭を手を動かした。
最後の一枚、ひさかたのを「ひ」に振り終わると、あとは枚数が少ない箇所を探すだけだ。一枚札も二枚札も充分に揃っている。心配なのは、枚数が多い「あ」や「な」、「わ」、「お」などだが、数えても枚数通りある。そうすると、三枚札や四枚札を調べることになるが、そこで僕の勘が冴え渡った。
「あとは……あった! き行が一枚足りない!」
つい手を伸ばした「き」行には、二枚の札。「きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに」と「君がため 春の野に出でて 若菜摘む」だけだったのである。
これも因果なことだった。むしろ何か意味があるのかもしれない。
足りないのは、そう。「君がため 惜しからざりし 命さへ」、僕が教えなかった藤原義孝の歌だった。




