7月24日 7:00
〈神政祭のお知らせ ―高校配布版―〉
日時:八月三日 開催場所:公神館
夜十時以降の外出は原則禁止です。例外として儀式の関係者をはじめ、証明書が受理された場合はそこで決められた時間内に限り夜十時以降の外出は可能です。
神政祭は非常に重要な土地神による公式の祭典です。礼節を弁え、高校生としてふさわしい態度で参加しましょう。
7:00
アラームをセットした時間よりも十分早く目が覚めた。音が鳴る前に起きるのはいつものことで、それを知る友人には年寄りだの耄碌だの言われてしまう。
僕の住む家には僕以外誰もいない。小学二年の冬に両親が自殺して以来、中学三年生の終わりまでは、親戚の繋がりでお手伝いさんが家に居た。しかし、もう自分は高校生となり、そのお手伝いさんとも会わないでいる。だから、今の僕が喋る相手は傍から見るといない。でも僕には、僕一人にだけ許された話し相手がいる。
「おはよう、ザガン」
〈おはようさン〉
今日は左前腕の内側に彼はいるらしい。その姿は二次元、つまり平面で、黒いタトゥーのように見える片目の形をしている。場所の移動はあるものの、触っても凹凸はないし、痛みも違和感もない。話に聞く限り、ザガンにとっては触られるとイラッとくるそうだ。
とにかく、いつものことではあるので、僕もまた学校に行く支度を終わらせなければいけない。まずは朝食作りと身支度を終わらせなければ。終業式の日でお昼休憩がなくて、お弁当を作らないで済むから助かるな。
そんなことを思いながら、僕はそそくさとベッドから出て一階へ降りていった。ああ、今日も穏やかな朝だった。
白いホーロー鍋に水をいれ、ぐつぐつと煮えたぎるまで火をかける。その間に洗面所で制服に着替えたあと、コップ一杯分の牛乳を電子レンジで温めておこう。朝は白米のほうが僕は好きだけど、パンのほうが片付けも楽だ。トースターの電源をつけて食パンをセットしたころに、水は沸騰しきっていた。
お酢を流し込み、菜箸でぐるぐるとかき混ぜて流れを作ってやる。渦潮のようにしてやれば、そこに卵を浮かべた。ぐるぐると卵は鍋中を回りながら、次第に白いベールを纏っていく。
〈なんだア、ソレ! 美味そウ〉
「テレビでやってた。ポーチドエッグ?」
〈ポーチ……なんテ?〉
「ポーチドエッグ。落とし卵。今日はずいぶん元気じゃないか」
数十秒経てば、ポーチドエッグは完成する。お玉で掬って、広げたキッチンペーパーに置いて、水気をとる。白く平たい皿に焼きあがったパンと、ポーチドエッグ、残り物のハム二枚を適当に盛り付けた。ホットミルクとともにダイニングへ向かった。初夏の涼しさのある早朝、照明をつけていないリビングはひたすら青い。
たった一人で席に着く。本来は四人まで座れるダイニングテーブルは寂しさがある。
〈ここんとコ、長く眠ってたからナ。二週間くらいカ?〉
「今回は何日くらいもちそう?」
〈……三日が限界!〉
ザガン、彼には活動の限界時間がある。数十日眠る代わりに、数日だけ目を覚ます。姿は見せてくれないけれど、その数日間だけは会話ができる。それを寂しくも思うし、どうしようもなく仕方がないと思う。
「やっぱり僕のせい?」
〈否定しないゼ、お前のせいダ〉
ザガンは息を吐くように嘘を吐く。けれど、同じくらい本当のことを喋る。彼にとって嘘は打算的な防衛手段で、その必要がないならば、僕よりも素直で真っ直ぐな性格をしている。
「血でも寿命でもなんでも貰っていいのに」
〈宿主殺す悪神がいるかヨ。お前は補助がなきゃ俺様をフル稼働できねエ、クソ雑魚だ。自覚しとケ〉
ザガンのような存在を悪神と呼ぶ。世間がそう決めたのだ。何も彼は悪いことをしていないのに。
悪神は活動のために対価や供物を与える必要がある。それは僕も知っている。
「仮契約? してるんだから、もっと僕よりすごい奴に、」
〈普通ならそうすル〉
――乗り換えてしまえばいいのに。と言おうとしたところで、食い気味に否定された。仮契約云々の話は、僕はあまり知らされていないからわからないけれど、恐らく僕じゃなくたっていい。
〈でもしかたねエ、お前を殺したらタタラに何言われるか分かったもんじゃねエかラ〉
「父さんは優しいから大丈夫。もちろん、母さんも」
鍛冶場たたら。僕の父親の名前。ザガンは僕よりも両親との付き合いが長いらしい。どこで出会ったのか、何があったのかは知らされていないけれど、きっとその仲は悪くはないはずだ。
〈ハン。ソレは一人息子の意見。俺様、約束事は守るからナ〉
「うん、ありがとう」
卵の黄身が染み込んだパンの耳に残った一枚のハムをのっけて口に放り込んだ。指先についたパンの粉を皿に落としながら、左手でコップを持ち、ホットミルクを呷った。ほんのりと広がる甘味が落ち着く。
もう一度胃に流し込んで、食べるもののなくなった皿とコップを重ねた。シンクに置かれている桶の水に、少しだけ乱暴に押し込む。食器洗いは夕食を食べ終えた頃にしてしまえばいい。たった一人の朝食なんだから、苦ではない。
寝ぐせを軽く水で寝かせながら、歯を磨く。捻った蛇口から冷たい水が出て、僕に残ったほんの少しの眠気を吹き飛ばした。口をゆすぎ、ついでに顔も洗う。水滴をタオルで取り去ってしまえば、僕の目は完全に冴えた。
「今日は……終業式でシロガネって神様が喋るらしいんだけど、できるだけその時は――」
〈わアってるヨ。面倒事は御免ダ〉
今日は終業式。何か勘づかれて、呼び出されるのは面倒だ。いわば、指名手配犯を匿っている気分とはこんな感じなんだろう。
僕は鞄を一つ持って玄関の扉を開けた。輝かしい初夏の風が吹きつける。一つ、欠伸をして鍵をかけた。