通勤快速
私が担当していた案件を、一方的に断ってきたクライアントのことを思い出すと腹が立つ。強調するために、強めに言っただけのことを、私が怒鳴っているとクレームをつけてきた。あまりにも腹が立ったので、ひとりで居酒屋に行って飲んできたのに、気分はまだすっきりしない。早く忘れてしまいたい。平日の23時前の電車内はガラガラに空いている。気を紛らわせるために、好きな作家のミステリーを読もうとしているのに、内容が全然頭に入ってこない。
「えー、やばいって!」
「別に普通じゃん? アンタのほうがやばいって!」
横のほうで女子大生くらいのグループが猿のような声で騒いでいるのが耳障りで顔を上げると、恥ずかしげもなく手をつないでいる不細工なカップルが目の前の席に座っていた。その女のほうが、あのクライアントに似ていて、私は顔を本に戻した。眉に皺が寄っていないといいんだけど。最近、皺が目に見えて増えているから。まあ、年齢的に仕方ないのかもしれないけど。
「マジでさ、門限厳しいの勘弁してほしい」
「わかるわー。日付が変わる前に帰ってこいとか今時ありえんくない?」
これだから、甘ったれた若者は嫌いなのよ。自分が甘やかされて育っていることも気づかずに、文句ばかり。あのクライアントや、2階の部屋に引きこもっている息子と同じだわ。私や自分の母親のことを、うるさいババアだとでも思っているんでしょう。誰のおかげで生活できているのかも考えずに。頭が痛くなってくる。アナウンスが最寄り駅だと繰り返すので、私はしおりを挟んでから文庫本を閉じた。鞄にしまって電車を降りると、夏の夜の風が私の頬を撫でる。今夜はそれすら不快だった。ホームには私ひとりきりだった。ポケットの中で携帯電話が震えた気がしたので立ち止まる。取り出して開いたのに、着信も新着メールもない。私は首を傾げて、ポケットに戻した。顔を上げると、遠くに白いワンピースの若い女が立っているのがぼんやりと見えた。時計に目をやると、0時を少し過ぎている。こんな時間から出かけるなんて、親の教育はどうなっているのか。私の娘なら絶対に家から出さない。そう思って、また歩き出そうとすると、至近距離に白いワンピースの女が立っている。
「ひっ」
それは、瞬間移動でもしない限りここまでは来られないはずの距離だった。
「ネエ」
男と女と子供と老人が同じ声帯で喋っているような汚い声を、それが出す。
「ネエッテバ」
青黒いあざと真新しい切り傷だらけの、体と同じだけある長い腕が伸びてくる。思わず私は後ずさりした。
「ニゲナイデヨオ」
横を向くと自殺防止の鏡がある。そこに映っていたのは、顔中に真っ赤なお札が貼られた私だった。それが映っていないことよりも、自分の姿が恐ろしい。
「こ、来ないで」
慌てて逃げようとした私は、点字ブロックにヒールが引っかかってバランスを崩す。瞬間、ホームから落ちる。
「大変危険ですので、黄色い点字ブロックより内側にお下がりください」
地響きのような電車の音がして、目が眩んだ。