「彼」の夢想と生活と
「彼」にとって、世界とは唯ひとつ。
未来とは唯ひとつ。
現実とは唯ひとつ。
デカルトが何を言おうと、蝶が夢の中で偉人になろうと関係ない、「彼」のどこにも選択肢はない。
逃れられない荒涼とした地平が、前にも後ろ右にも左にもにも広がっているだけで、いくら歩けども変わらないその景色だけが、彼に与えられた、たったひとつの世界だ。
「彼」は哲学者が嫌いだ。希望に満ちた世界で不幸ぶる「彼ら」が嫌いだ。
「彼ら」は「彼ら」に「幸せになる選択肢」がきっちり用意されているのを、実はちゃんと知っている。帰りの飛行機のチケットを片手に握り締め、貧困国を物見遊山で練り歩くようなものだ。少し道を戻れば、「彼ら」は、いつだって幸せになれる。無数の選択肢がある。
貧困国国民には、ただ、望みのない無気力な現実だけが残る。
「彼」もそれと同じ。
「彼」は、燃料切れまで曇天を彷徨う、標的の存在しない特攻隊員なのだ。
風。
砂塵が「彼」の肌を襲い。ざらつく砂の感触に、夢想から醒め、現実へ立ち戻る。
眼前の景色から、数分の間、意識が離れていた。
ため息をつく。
そう、「彼」もまた思想家であり夢想家であり、哲学者なのである。
「生活者でありたい」と願う「彼」は、しかし、「彼」の願いと別に、「彼」の生活は夢想へと繋がっている。生まれながらの哲学者なのだ。
大きく息を吸い、ゆっくりと吐く。
「彼」の身体に、「彼」がひとりの人間でありひとつの「動物」であると思い込ませるように。
夢想の世界へ簡単にいざなわれないように。
風はすぐに凪ぐ。
「彼」は、未来の夢想のために、今、生活者としての魂を奮った。