第3話 不安定な世界
気が付いた時には、もう夜だった。
「変動は無事済んだのか?」
当然、傍にいたはずの神崎の姿はない。こちら側の神崎は、向こうの神崎とは全くの別人であり、俺と一緒に下校するという選択肢を取るわけがないからであった。
両世界にそれぞれ、中身の異なる人間が存在する。すなわち、同じ形をしたふたつの肉体に全く真逆の性質のふたつの魂である。それが俺の場合は、ひとつの肉体にひとつの魂。それは変動により両世界を行き来する鍵であるわけだからと言えるけど、俺が移った後、つまり先ほどまでいた世界での俺の存在はどうなっているのだろうか。肉体がひとつしかない以上、そこまで知る由はなかった。
「……とりあえず帰るか」
なにはともあれ、もう日が落ちてしまったことだし、これ以上の活動は望めないだろう。
ここからすぐの商店街を抜けた先に、“アザミ荘”というボロボロの二階建てのアパートがある。そこで俺は一人暮らしをしているのだ。
「アザミの花言葉は独立、か。今となっちゃ、とんでもなく皮肉めいた名前だな」
高校生にして一人暮らしというのも奇妙な話である。両親はどこへ行ったのかというと、お決まりの海外旅行やら、二人いっぺんに片道切符の天国旅行やら、ではなく。うーん、これが実はよくわからなかったりする。両親の記憶を残念なことに俺は持ち合わせていなかったのだ。人間であれば誰であれ母親から生まれてくるのは間違いないのだが、俺は、うーん。たまごから生まれたわけでもない。
気が付いたら、ここでこうして一人で生きていたのである。
なんの疑問も抱かずに。
「あ、伊織ちゃんだっ! おかえりっ!」
アパートの階段を登ろろうとしたところにとびきり元気な声が降りかかる。
「はいはい、ただいま。田町はいい子にしていたか?」
声の主は、アザミ荘のお隣さんである田町という名の少女だった。
「もちろんだよう! そういう、伊織ちゃんはいい子にしていたのかっ? なんだかこっちに来るのは久しぶりなんじゃないかっ?」
「自分の家に帰るのに久しぶりも何もないだろう」
「そんなこと言ってえ、田町はわかるんだぞ? 田町はいつだって、伊織ちゃんが帰って来た時はこうしてお迎えをしているのだからなっ!」
そうなのだ。
この田町という少女、正しい年齢を聞いたことはないが、見た目から察するに小学校一年生くらい、俺が朝帰ってこようが夕方に帰ってこようが夜遅くに帰ってこようがいつだってこうして家から出て来て俺を迎えてくれる。足音でわかるのだろうか? まあ、簡潔にまとめるとかなり不思議な少女である。そしてもっと不思議なのが彼女の同居人である、
「田町さん、勝手にどっか行かねェでくださいよ。……ああん? また伊織ですか」
「も〜有楽ちゃん超怖いんですけどっ!」
この有楽という人物だ。
「どうも有楽さん、こんばんは……」
「ああん?」
話し方を字面だけで見たらどう考えても男にしか思えない乱雑な男言葉を使うとにかく怖い人。(いや、実際にどうかは知らないけど話してるぶんには怖い)有楽さんは確か大学生で、田町の面倒を……何が理由だったかな? まあ、とにかく見てるらしい。不思議なことといえば、なぜか有楽さんは田町に敬語で話すことである。従兄弟で大学生と小学生ならばかなりの年の差なはずで、多分家主は有楽さんの方(しかあり得ないよな?)だと思うのだが、
「有楽ちゃん? 伊織ちゃんには優しくしなきゃダメだぞってあれほど言っておいたではないかっ!」
「いやでも、」
「でもじゃないっ!」
と、こんな具合なのだ。
多分、有楽さんはガンを飛ばすだけで人が殺せるんだと思う。俺は、自身に向けられた殺人級の視線を感じながらそんなことを考えた。言っておくが、恨まれるようなことをした覚えは一切ない。ごくごく普通のお隣さんのはずである。
「なあ、田町、」
「ん? なんだっ?」
「俺、有楽さんになんかしたかな?」
「いーや? してないと思うぞっ! 有楽ちゃんはちょっと人見知りなんだよ、許してやってくれっ」
……人見知りってレベルか? これ。人見知ったら天使のような微笑みを向けてくれるのか? アニメや漫画にはツンデレというキャラが存在するが、おそらく有楽さんにデレ要素は望めない。そもそもツンとかいう可愛らしいカタカナふた文字で彼女を表現しようなんてこと自体が間違っているとしか考えられない。考えようがない。これで有楽さんにファンシー好きとかそういった類の趣味があるのならばまた可愛いものだが。そういった様子も、
俺は、改めて家から飛び出してきた有楽さんを見た。
無造作にまとめられた髪の毛に、明らかにオーバーサイズのダボっとしたジャージ。ほらな。そう簡単にイメージを裏切らないのが人間ってもんだ。それに、夕飯時だったんだろう。……フリフリのエプロン。
ん?
「ほら、田町さん。夕飯冷めちまいますんで」
「はあ〜い! んじゃねっ! 伊織ちゃん!」
フリフリのエプロン……? フリフリのエプロン……フリフリのエプロン……フリフリのエプロン……フリフリのエプロン……フリフリのエプロン……フリフリのエプロン……フリフリのエプロン……フリフリのエプロン……あの有楽さんが? フリフリのエプロン……フリフリのエプロン……フリフリのエプロン……フリフリのエプロン……フリフリのエプロン……フリフリのエプロン……フリフリのエプロン……え? あの有楽さんが?
「チッ、何見てやがるンだ」
「フリフリのエプロン……?」
「ああん? なんだよ、フリフリのエプ、……ってめェ!」
前言を撤回しよう。
今、俺を追い回しているどう考えたってヤンキーとしか思えないフリフリエプロンの彼女がお隣さんに住む有楽さんこと有楽さん。(苗字だか名前だかわかんないのである)そして、
「ほらなっ! 有楽ちゃんは本当に人見知りなだけなんだよっ」
それを見て満足そうに腕を組んで微笑んでいる謎の少女が田町こと田町である。
「はァ……はァ……」
「ったく。今度エプロンについて言及したらただじゃおかねェからな」
「わ、わかりました……有楽さん……」
「じゃ、有楽ちゃん! 田町たちは夕飯にしようかっ!」
「食べようと思った矢先に飛び出してったの田町さんッスからね?」
「うぷぷぷ! 悪かったよっ! 今日のメニューは?」
「ハンバーグです。この前リクエストされたやつ」
「やったあ! あれ美味しいんだよねっ! ハンバーグに国旗の旗さえ立ってなきゃ文句なしなんだよっ」
ん? 国旗の旗?
「田町さん!!!」
顔を真っ赤にしながら慌ててドアを閉める有楽さんたちを俺はぼうっと見送る。
俺の周りはいつだって慌ただしいのだなと、改めて思わずにはいられなかった。
玄関前でどれだけ立ち話をしていたのだろう。ようやくカバンの奥底に沈んだ鍵を引っ張り出そうとすると、ふと、金木犀の香りが鼻をついた。俺はこの香りを知っている。お隣さんが、はちゃめちゃドタバタ有楽&田町ペアなのは間違いないが、この香りを漂わすのはもう片方のお隣さん、
「まあ! まったやっていたのですか?」
間違いなくナンバーワンの俺の癒し、浜松さん!!!!
「ええ、まあ。お恥ずかしい」
俺の部屋が202号室で、201号室が有楽さんち、203号室がこの癒し系大学生でかつこのアザミ荘の大家さんである浜松さんだ。絶妙にずり落ちた丸メガネが今日もキュートである。
「なんだかお久しぶりですね」
「自分の家に帰るのにお久しぶりも何もないですよ」
俺は、そう答えながらある疑問へと到達している自分に気がついた。
「……?」
「浜松さん?」
考えてみれば、いつだってそうだった。どうして今まで気がつかなかったのかが不思議なくらいである。
「いえ、ごめんなさい。そうですよね。お久しぶりなわけないですものね……!」
俺は、知らなかったのだ。
田町も有楽さんもそして浜松さんも俺は、ひとパターンしか知らない。
そして、つながる「お久しぶり」の意味。玄関前でのやりとりは毎回必ず行われるものであり、本来であれば、自分の家へ帰るのに「お久しぶり」というのはおかしいはずなのだ。
それはつまり、俺がアザミ荘、つまり自宅へ帰るのはいつだって片側の世界にいる時のみだということを意味することでそれは、
「あれ? もしかして完全に失言? あの……気づいちゃいました?」
浜松さんたちが、世界の構造を知っていることを指していた。