第2話 日常と世界
「うおぉい! 伊織!」
「え?」
「え? じゃねんだよ、え? じゃ!」
「なんだよ、どうしたってんだよ龍ヶ崎」
「いや、思ってたよ? お前が無自覚人誑しだってのは理解しているつもりだった。にしてもだ! なんだ今のは、ああん?」
「なんでそんなに怒ってるんだ? ちょっと、雪ノ下。こいつどうにかしてくれないか」
なぜか急に怒り出した龍ヶ崎をどうにかしてもらおうと、俺は雪ノ下に視線を向ける。と、怒り出したのは龍ヶ崎だけではなく、どうやら雪ノ下も同じらしかった。
「いおりん?」
わかる。龍ヶ崎が怒る分には勝手にしとけ、と思うがこれはまずい。雪ノ下はまずい。俺の危機察知力はそこまで劣ってはいない。
雪ノ下は笑顔こそ浮かべてはいたが、怒りの感情がダダ漏れであった。
「どういうことかな? 今のは。さあ、説明願おうじゃないか? ん? 龍ヶ崎も聞きたいでしょう? いおりんの主張」
「ああ、もちろんだぜ」
なにかおかしなことを言っただろうか?
「いや、神崎さんに大事な話があって、」
「「大事な話だと?!?」」
「え? あ、ああ。だから二人だけの時間が欲しかったんだ」
「「二人だけの時間?!?」」
「どうしたんだよ二人とも。俺、なんか変なこと言ったか?」
―――――俺がこの後理不尽なゲンコツを食らったのは言うまでもない。
当の神崎さんは珍しく顔を真っ赤にして黙って俯いていた。具合でも悪いのかな?
「どうした? 神崎さん熱でもあるんじゃないの?」
俺が、神崎さんの額に触れようとした瞬間、
「そう言うところだ!!」
雪ノ下の強烈な一撃を食らったらしく、俺の意識はそこで途絶えた。
** *
「ん……」
眼が覚めて最初に飛び込んで来たのは、真っ白な天井だった。
「あ、起きた?」
そして俺を覗き込む神崎さんの顔……顔?
瞬時に理解する。雪ノ下のやつ、俺を保健室送りにしやがった!!
「俺、」
「保健室だよ」
「午後の授業は」
「終わった」
「はあ?!」
「終わった。今は放課後で、龍ヶ崎くんと陽子ちゃんは帰っちゃった。陽子ちゃんがゴメンね龍ヶ崎は責任もって連れて帰るからってこれ、」
神崎さんが購買で大人気のかりんとうを手渡してくれる。なるほど。雪ノ下陽子という人間は見かけによらず、強力な戦闘力を有しているようだ。実家はボクシング教室か何かだろうか。
「よくわかったね! 雪ノ下ボクシング教室って駅前にあるんだけど、知らない?」
「ああ、そう言えば見たことあるような気がする」
どうりで。
普通なら、こんなかりんとうひとつで俺の午後の授業の欠席分の痛手が取り返せるはずもないし、ゴメンねの一言は直に言うべきなんだろうけども、俺はこれを吉ととることにした。
面倒な龍ヶ崎を連れて帰ってくれた雪ノ下の粋な計らいと言っていいのだろう。たぶん。セコムの雪ノ下だけど。
これで、俺は神崎さんと二人で話をする機会を得た訳だ。
「「あの」」
さっそく切り出そうとすると、タイミングが揃ってしまったらしく言葉が重なった。
保健室に謎の甘酸っぱい緊張感が生まれる。なんなんだこれは!
違う違う! 意中の女の子と保健室で二人っきりなんていうシチュエーションにドキドキしてる場合じゃないんだ俺は! 俺は、神崎さんに話さなきゃいけないんだ。大事な話をしなきゃいけないんだよ。
「ご、ごめんね伊織くん! あ、あたしは伊織くんがあたしと二人で話がしたいって言ってたことが気になってただけだから、そそそその、えっと、さ、先どうぞ!!」
「そのことなんだけど神崎、大事な話があるんだ」
「さ、……さささささ」
「さ?」
「そ、そういうのは良くないと思うんだよ!」
「?」
「神崎、だなんて呼び捨てで呼ばれたことないのに!」
「ああ、悪い!」
それにしても、話を切り出す俺はともかく、なんで神崎さんまでこんなに緊張してるんだろう。
「勢いあまって」
「ううううううん!」
うん、なのか、ううん、なのかどっちなのだろう。
「それでさ、」
ようやく本題に入ろうとしたのもあえなく、
「せんせー怪我したあ!! ……あれ? 先生いないの?」
他の生徒の保健室への乱入により話題はまたもや先送りになった。
とりあえず、帰りながらにしようかという話になり急いで荷物を取りに教室へ戻ろうとしたら「持ってきてある」と神崎さんに止められた。なにからなにまでしてもらって申し訳ない気持ちになりながら、そう言えば元はと言えば雪ノ下が悪いのでは? という結論に落ち着く。なにはともあれ、歩きながらならならば邪魔も入るまい。
しかしまあ、紛いなりにも女の子である雪ノ下の一撃で気を失う俺ってどうなのよ?
こんなんじゃ、バトルアクションもののヒーローには決してなれんなと我ながら情けなくなる。どこの部活にも所属せずに、帰宅部としてのエースを誇ってたらそりゃあ、日々の鍛錬が足りないという話にもなるわな。
「あのさ、」
夕方の下校路。
空想癖(今回のは現実だけど)のある美少女と肩を並べて歩くのを青春と呼ばずしてなんと呼ぼうか。道行く人の視線が神崎さんに向けられるのを感じる。それほどまでに可愛いのだ、彼女は。
さあ。本題に入ろう。
「「あの」」
「ああ! もうごめん! あたしったら!!」
「またかぶったな。俺たち、息が合うのかも」
にっこり笑ってやると、神崎さんも安心したように笑顔になった。
いうまでもなく、反則級の可愛さである。
「その、話なんだけど、」
「う、うん」
頭がおかしいと思われるだろうか。
作家を志す彼女に限って、創作物の話と思われることはあったとしても、信じてもらえないなんてことは起こるはずがない。そもそも、人のことをばかにするような人間でもないのだ。
「さっきの夢の話なんだけどさ、」
「え?」
「してくれただろ? パラレルワールドなんじゃないかってやつ」
「うん、」
「それさ、まだ気になる? 本当に夢だったのかどうか」
神崎さんの動きがフリーズした。
やっちまった。
直感的にそう思う。
そりゃそうだよなあ?! 人の夢の話、いつまで引っ張るんだって話だよなあ?! 気持ち悪いって思うよなあ?! しかも、わざわざ二人で話がしたいだなんて神崎さんの大事な時間をもらっておいて、そりゃないよなあ?! それに? さっきまで? 俺、意識ぶっ飛んじゃってたわけだし? 気でも触れたかって思うのは当然の心理だよなあ?
ところが。
フリーズした神崎さんの表情は、まるで雪が溶けて冬から春へと移り変わるかのように、みるみると輝いていったのであった。
「もしかしてなんかわかったの?!?!?!」
直感的に思う。
あ、これもしかして本当にやっちまった感じ?
「え、え、え、もしかしてその話するためにあたしと二人に? 聞かせて! 聞かせて聞かせて! 伊織くんなら、もう、超超超すごい発想で返してくれると思ってた!」
ぎゅっと、勢いの止まらない神崎さんは俺の手を握って詰め寄る。
なんだこれ? おーい? 帰ってこい? 俺の甘酸っぱい緊張感はどこ行ったんだァ?
「朝起きてさ、“これはもはや作品の域”って思ったんだよね、あたしも!! だから伊織くんに話したわけでさあ!」
「そのことなんだけどさ、神崎さん」
「いやもう神崎でいいじゃん? この際! さん、なんて煩わしいでしょ?」
「俺、知ってるんだ」
「何を何を!」
「神崎が見た夢、知ってるんだ」
「知ってる? どういうこと?」
「あのな、神崎。コインがあるだろ?」
「コインが何? 随分ともったいぶるんだね?」
「いいから聞いてくれ、コインには裏と表があってだな、実はこの世界にも、……んぐッ」
「伊織くん? どうしたの? 大丈夫?!」
裏と表がひっくり返る時は、いつも決まって音がする。
時間切れだ。また話せなかった。
金属に爪を立てたようなそれは、とにかく不快な音。耳を塞いでも、音は頭を切り裂くように俺をこの世界から引き剥がす。裏と表がなんだっていうんだ。ちくしょう、なんでったって俺は……!
「伊織くん? 伊織くん!!! 伊織くん!」
天と地がひっくり返ったその時、裏は表へ、表は裏へと変わる。
心配そうに俺の名前を呼ぶ神崎の声がだんだんと遠ざかる。
俺はゆっくり、目を閉じた。