29.ガラスの小瓶編 孤独
あの後、セフィライズは治療も受けずそのままの状態で帰路についた。もう時間はかなり遅く、小さな六花が柔らかく降り注ぐ夜。彼は一人、森の中のような庭園を歩く。氷点下の世界で、防寒具すら身に着けていない。
額が燃えるように熱い。疲労のせいか熱く感じる。めまいがしそうだった。
セフィライズは家の中に入り、暖炉に火をともす。魔導人工物はあれど、彼はこの自然な暖かさが好きだった。薪を調整しながら何本か足して、その前に座り込む。
そっと額に触れ、傷口へと指を滑らせた。出血は止まっているが、髪に伝った血はまだ濡れている。手についた鮮血を眺めて、目を細めた。
スノウの姿がセフィライズの脳裏から離れない。
生まれだとか、見た目だとか。そんなものを気にしない。そうセフィライズへと伝えてくれたスノウが、心から衝撃を受けた表情をしていた。
癒しの神エイルへの信仰心を考えれば、殺人は大罪。最初はそれが怪物だと認識して殺していたとしても、二回目からは人になるとわかっていた。わかっていて殺した。そうするしか方法がないと、思ったからだ。
あの状況で、もしかしたらあったのかもしれない。助ける術が、探さなかっただけ、考えなかっただけ。
そして簡単に、殺したのかもしれない。
彼の手に残る感触が抜けない。あれは人だった。人と同じ感覚だった。セフィライズの衣服にはいまだ血痕がべっどりと張り付いて、その匂いをまとわりつかせている。膝を抱えて座り直し、頭を埋めた。
ちょうどいいじゃないか。そう思った。
最初から、ずっと、疎遠にするつもりだったじゃないか。自分と一緒に、いない方がいい。わかっていたことだ。
「何を動揺してるんだ。こんなに呪われているのに。当たり前じゃないか……」
肌の色も、目の色も、髪の色も。生まれたこと自体全て、呪われているのだから。
どのくらい、時間が経ったかわからなかった。一瞬だった気もする。膝を抱えうずくまるのをやめ、服を着替えようと立ちあがったその時、込み上げる違和感。吐き気、ではない。何かわからない、胸の奥で、何かが渦巻いているような感覚。今までにない、表現し難い何かが胸の奥から広がっていく。
「何、っ……うっ……」
唐突に始まったそれは、四肢に向かって広がるように伸びていき、すぐに痛みに変わった。激痛で息が吸えないほどに胸が痛い。心臓を抑え、そのまま床に倒れ込んだ。どうにかしなくてはいけない、急激な痛みの加速に頭が混乱しそうになる。手を伸ばし、床に敷いたラグを無意識に握りしめた。
「はっぁ……まず、いっ……何、がっ……」
意識が遠のきそうになる。しかしもう、助けを呼ぶことはできそうになかった。
これで死ぬのか。そう思った。
――――ずっと、死にたかったんだろ?
深淵の夢で見た、自分自身に言われているような気がした。
「あぁ、そうだよ……」
手を伸ばす先に、見えた気がした。
差し出される手。顔の見えない、よく知っているような誰かの優しい笑顔と共に。大丈夫。そう言われているような錯覚さて覚える。
ずっと欲しかったもの、ずっと触れてみたかったもの。ずっと、ずっと、想っていたもの。
しかしその手は、それを掴むことはなかった。
走るシセルズをスノウは必死で追いかけた。しかしマナの消費量が多かったのと、元々の速さの違いもあり追いつけない。壁に手をついて、スノウは息を整える。早く行かないといけない。何かあってからでは遅い。でも体がいうことをきかなかった。
「スノウちゃん、急いで!」
シセルズは彼女の遅れを気にして戻ってくる。ゼーゼーと息を切らして必死に走ろうとする彼女の目の前で止まった。
「ごめ、んなさ、いっ……! 先に、行って、ください……」
スノウがいなければ意味がない。しかし失ったマナが多すぎて、彼女は思うように体が動かない。シセルズは咄嗟に彼女を抱き上げた。束ねた藁を持つかのように軽々と肩に腹を当てた状態で。
「シセルズさんっ!」
「悪りぃ! 今は急いでるから、運ばせてもらうからな!」
彼女を荷物のように持ち、シセルズは必死に走った。防寒着もない状態で外に出て、雪道に足を取られそうになりながら。
弟の事が心配で仕方なかった。しかしそれは、本当に弟の事を心配しているのか、それとも、終わってしまうかもしれないという事を心配をしているのか。
咄嗟に助けた、なんて嘘だった。あの時、父親に殺されそうになっていた弟を助けた時と、同じ。今も、結局はセフィライズを心配なんかしてない。自分達の、心配をしているんだ。その感情が、醜いとシセルズは思い、走りながら自嘲するように笑ってしまった。
ログハウスの前でスノウをおろし、扉を勢いよく開ける。大声で弟の名前を呼ぶも反応がない。暗い部屋の中、暖炉の光の前に黒い影が見えた。
「セフィ!」
シセルズは駆け寄り、セフィライズの体を抱きかかえる。怪我の治療も受けず、髪にべっとりついた血は塊になって崩れる。シセルズの手に砂じゃりのようになった血液がざらざらと貼り付いた。
「にい、さ……」
苦痛の表情で心臓の辺りを掴みながら息も絶え絶えのセフィライズが目を開ける。その視界に、兄だけではなくスノウを見た。
会いたかった、会いたくなかった。二つの感情が浮かぶ。朦朧とした意識の中で、彼女に、スノウに、伝えたい言葉があった。それを口に出そうにも、唇を小さく動かすのみで声にもならない。
「スノウちゃん、ちょっと待って。こいつの使ったら、やばそうだから」
詠唱を始めようと手をかざしながら座るスノウを止める。このままスノウが魔術を使ったら、彼女の体内に残るマナよりも、セフィライズのマナを使ってしまう気がしたからだ。




