9.涙雨と救出編 休息
夕暮れだった空は、程なくして星辰を散りばめ始める。世界はすぐに暗くなるも、気温はさほど下がらなかった。夜になったというのに、壁は不思議な光を放ちながら変わらず揺らめいている。
セフィライズは慣れた手つきで焚火を起こした。雨で濡れた衣服を脱ぎ、上半身を露わにさせる。それを近くの岩へと広げて置いた。
スノウが焚火の傍で膝を抱えて座っているのを横目で見る。彼女もまた、上の服を脱ぎ、肌着一枚の姿で恥ずかしそうに膝を抱えている。
スノウが顔を上げると、マスクをしていないセフィライズと視線が合った。炎の揺らぎではっきりとは見えない彼だが、やはり端正な顔立ちだ。薄い唇、切れ長の瞳。
夜闇の中、焚火の明かりに照らされる彼の色白で鍛え抜かれたしなやかな体。そこに痛々しい傷跡が数箇所確認できた。特に腹、へその横に抉られたような古傷が目立つ。しかし、先程スノウが癒やした傷口は、見る影もなく綺麗に治っていた。
「あの、カイウスさん…」
スノウに話しかけられ、セフィライズはひと際申し訳なさそうな表情を浮かべた。
スノウに名前を聞かれた時、咄嗟にカイウスと名乗ってしまった。黒髪へ変装した状態での名前を一切決めていなかったせいだ。
スノウが何か言いたげにしている事を理解しながらも、セフィライズはブーツに仕込んでいた小さなナイフを取り出し、拾った枝を削り始める。丁寧に細く整えられたそれを、何か強い動きを見せることなく投げると、見事に地面に突き刺さった。
「魚がいないか、見てくる」
セフィライズはそう言ってスノウから離れ、川の方へと向かって行った。
彼を見送り、焚火の揺らめきを眺めながらスノウは思う。逃げるとか考えないのかな、と。ゆっくりと目を閉じると、疲労が溜まっていたせいかその瞬間崩れるように眠りに落ちてしまった。
スノウが目を覚ますと、小さな魚が何匹か下処理をされ焼かれていた。すみませんと、呟きながら体を起こす。しかしまだ、とても眠かった。
スノウは先ほどまで緊張と疲労で空腹を感じていなかったが、セフィライズが差し出す魚を受け取り口をつけると、やっと感覚が戻ってきた。内臓が取り除かれた部分に、自生していたディルを少し詰めているようだった。慌ててもう何匹かの魚を食べてしまう。
セフィライズはスノウのその様子を穏やかな表情で眺めている。それに気が付いたのか、スノウが恥ずかしそうに顔を赤らめた。マスクをしていない彼の顔立ちはやはり、端正だというのにどこか、何かが違う気がする。
「どうして、進まなかったのですか?」
「……夜になると、良くないものが出る、壁のそばは安全だから」
スノウは、あれはなんですか? と、壁を指さして質問したかった。しかし、セフィライズがそれ以上話したくなさそうに座り俯くので、聞けなかった。
スノウは元々ここよりもっと南の、砂漠地帯が主な国土であるカルナン連邦の管理下にあるオアシスを中心として栄えた小さな村々の出身だった。その空間から一度も出たことの無かった彼女にとって、世界はとても小さなものだった。知るすべもなかった。
彼女の一族は特殊で、一つの村に長く滞在したりなどしない。また、自分たちの故郷となる場所を持たない。その特別な力故に流れるしか選択肢がなかったからだ。
誰から情報を得たのか。村を襲った者達は一角獣の乙女の特殊な能力を既に知っているようだった。
奪われ、穢され、そして略取されていく。唯一残ったのはスノウだけ。
スノウは膝を抱えながら、空腹が満たされた暖かさを感じていた。先程まで寝ていたというのに、また睡魔が襲ってくる。今日という日を思い出し、聞きたいこと、疑問に思うこと、考えたいこと。彼女の中に沢山あるも、既にそれらと対峙するだけの余力がない。
「私が見ているから、君はまた眠るといい」
セフィライズは何もしないよ、と笑った。スノウはゆっくりと自身の体を地面に横たえながらそれを眺める。酷く疲れた体は、もうその状態から動けそうになかった。すぐに瞼が重くなり、意識が溶けていく。
「今日は、ありがとうございました」
「……おやすみ、スノウ」
「……はい」
スノウが眠りについたのを確認し、セフィライズは立ち上がる。体を伸ばし、あたりを警戒するように見渡した。
――――いるわけない、か……
夜は特に、魔物や野獣といったよからぬ者が活動する時間だ。しかし何故か、それらの者達は壁付近には現れない。壁が荒れなければ、安全が確保されるため近くで野営をする者は多い。
セフィライズは深淵の夜闇へと遠く視線を向ける。壁から発せられる、揺蕩うような光を眺めながら。
彼の頭上を、小さな星屑が流れた。