26.終着に舞う白編 出発
翌朝、しっかりと眠った二人は別れ際にギルバートとオリビア夫婦に購入したランプ時計を手渡した。宿がこれからも長く繁盛する事を願い、二人の幸せを心から想う。
「また泊まりに来てよ。セフィが次来る時は、家族が増えてるけどね」
そう言いながら差し出される手を、セフィライズは握り返した。隣でスノウがオリビアに、おめでとうございますと嬉しそうに笑っている。そのやりとりの全てを、複雑な気持ちで聞くしかない。
もう、来れないかもしれない。もしかしたら、世界が終わるかもしれない。続くのかもしれない。でも。
この世界を存続させる事を。目の前にある小さくて当たり前の幸せは、続くべき未来だ。
ギルバートから防寒具を受け取り、コカリコの街から遠く離れた。周囲の人気がない事を確認する。空を見上げると太陽の中から飛び出してくるようにヘイムダルが滑空してきた。目の前に舞い降りたヘイムダルは少し表情が硬い。
「長かったですね」
「少し……知り合いに会っていた」
一人で待つのが寂しかったという事だろう。スノウはヘイムダルの背を撫でながらすみませんと謝った。
「ヘイムダル、アリスアイレスまで頼む。スノウ、寒くなるからこれを」
セフィライズは手に持っていた防寒具を彼女へと着せる。彼もまた、慣れた手つきでマントを羽織った。
セフィライズがしゃがみ両手を組んで差し出してくる。それに足をかけてヘイムダルの背に登れという事だろう。まだ一人ではまたがる事ができず、頭を下げながら足を乗せた。タイミングを合わせて彼が上へと力をかけてくれるので、すんなりと乗る事ができる。彼女の後ろに、セフィライズもまた乗った。
彼の蹄の上から生える小さな羽根が羽ばたくと、粉が舞うかのように小さなマナの輝きが発生する。ゆっくりと、空にある地面を踏むように浮かび上がった。
高度が増してくるとスノウは前屈みになってしまう。まだ怖い。
「大丈夫」
セフィライズがスノウの肩に手を添える。振り返るとすぐそばに、彼の瞳があった。何度見ても綺麗だと思う、その透き通ったガラスのような虹彩と、浮かぶ瞳孔。ただ今日はとても、切なくて冷たい色をしていると思った。
「セフィライズさん」
スノウは直感的にアリスアイレスに戻る事に何か、憂うものがあるのかと思った。
「何か……」
「……兄さんが……、いや……ううん。なんでもない」
話してしまいそうになったのは。思っている事を、疑っている内容を、伝えそうになったのは。一人では抱えきれないと、心が言っている気がしたからだ。しかし、それを言ったところで何になるのだろう。スノウを困らせて、悩ませて。ただそれだけだ。ならば言わない方がいい。自分だけで、秘めておくべきことだ。そして自身の力だけで、立ち向かわなければいけない事なのだ。
「お元気、だといいですね」
「そうだね」
ヘイムダルが北東へと進んでいく。次第に空気は冷たくなり、低い灰色の雲がゆく手を阻み出した。雲の下、小さな雪が舞う白銀の世界。スノウは寒さに身を屈めると、後ろのセフィライズが肩に触れた。自然と距離が詰まると、お互いの体温がとても温かく感じる。
今の季節、うっすらと雪化粧をした程度の大地の先。煙が上がっている。次第に足元に黒い斑点が見え、目を凝らすとそれは人の死体だった。
「セフィライズさん!」
スノウも気がつき指を差す。異様な匂いがして、腕で鼻を覆った。冷えた風の中に混じるこれは、人が焼ける匂いだ。
「ヘイムダル、もう少し急げるか?」
「やってみます」
いくらなんでも動きが早すぎる。セフィライズは眼下に広がる状況を見てそう思った。これはもう、始まっているという事実に他ならないからだ。
「どうして……だって、セフィライズさんがマナを……」
「……」
スノウには言えなかった。世界樹の根を分解し、マナに変換したのはセフィライズの中にある『世界の中心』を芽吹かせる為。それに失敗したのだ。リヒテンベルク魔導帝国はまだ、アリスアイレス王国にある邪神の封印を狙っている。
兄さんはどうしただろう、大丈夫だろうか。セフィライズはそんな事が頭を過ぎる。
シセルズ一人が裏切ったところで、アリスアイレス王国の軍事面を崩す事はできないだろう。特に王国を囲う巨大な防壁は強固で、それを超えて……。
セフィライズはその時ハッと、目覚めたかのように気がついた。別に、防壁など崩さなくてもいいのだ。数人、そしてあのウロボロスさえシセルズが手引きをして中へと招き入れ、邪神の封印にたどり着けさえすれば。
冬国の水路は地下にある。シセルズならば城内の室内庭園へ、あのフェンリル像の場所まで案内できるはず。
もしも、兄が手引きをしているのなら。




