15.華燭の典編 出発
翌朝、雨がすっかり上がると、濡れた白き大地を照らす太陽が周囲をキラキラと輝かせていた。草木に滴る雨水が、ぽたりと落ちる。溜まった水に優しい音が響く、気持ちの良い朝だった。
セフィライズが振り返ると、スノウはまだ体を抱えるようにして眠っている。目を細めてその姿を眺めながら、洗われたばかりの白き大地を少し歩いた。後ろからヘイムダルが黙ってついてくる。今一度、かつて世界樹があった場所で立ち止まった。
屈んで、その大地に手を触れてみる。もう、あの場所で見た消えゆく大樹の根はない。芽吹かせるだけのマナを、探すところから始めなくてはいけない。別の、方法を。
「……もう、あまり時間は残されていない。わかっているんでしょう?」
ヘイムダルに問われ、彼は振り返った。うっすらと残る朝霧と陽の光で照らされた枝角の美しい影が伸びる。
セフィライズは自らの手を見つめた。体が透け、その内に『世界の中心』が透けた事を思い出しながら。
白き大地の民の体は、マナでできている。『世界の中心』が芽吹くためには、大量のマナが必要である。永遠に共存し続ける事など、できはしないのだ。それに、次に宿木の剣の分解の力を使えば、おそらくそれが最後。
「知ってる。もう十分すぎる時間を、生きたと思う」
二一年前に、終わったはずだった。リヒテンベルグ魔導帝国が白き大地を蹂躙した時に、全て終わってもおかしくなかった。過去を思えば、どうでもよく捨てた時間が長すぎた。それでも今は本当に。生きてきた中で何よりも変え難いと思える時間。
セフィライズはヘイムダルへ手を出す。ゆっくりと枝角を下げながら、彼が歩み寄ってきた。
「最後まで足掻くと、誓った事を忘れていない。約束は違えない。必ず」
「では我も、その時まで」
今、この世界にはもう『世界の中心』を芽吹かせるだけのマナはないのかもしれない。しかし、残された時間で見つける他ない。それに、邪神の封印が全て解かれ、復活したイシズの器に自身の兄が取り込まれてしまう事を阻止しなければならないのだ。
シセルズが本当に、リヒテンベルク魔導帝国と繋がっているのか、邪神の復活に手を貸しているのか。そうだとしたら、真意は何なのか。
「アリスアイレスに、戻ろう」
目が覚めたスノウに、セフィライズはヘイムダルの背に触れながら伝える。スノウは昨晩の事を少し気にして、彼の瞳を真っ直ぐ見つめ返す事ができないまま頷いた。
戻ったら、もうきっと最後。一緒にいる時間は、おしまい。
スノウを先にヘイムダルの背に乗せる。彼もまたすぐヘイムダルの背に、スノウの後ろに乗った。ゆっくりと雄鹿の足が空の階段を上りだす。四本の足、それぞれについた小さな翼が小さく羽ばたいた。スノウはまだ宙を浮く感覚が慣れなかった。腰が引けながら手を握りしめる。真下を見ると段々と白き大地が遠ざかっていくのが見えた。
「前を見た方がいい」
後ろから彼の声がしてスノウは頭を上げた。視界の先にあるのは透き通った高い空、白き大地を取り囲む尾根を越えようとしても、その先には何もない。あるはずのもの、壁が見当たらないのだ。
「セフィライズさん、あの……」
風で髪が乱れる。スノウは片手で髪をおさえながら振り返ると、彼は目を細めて壁があったはずの向こう側を見つめている。
「壁は、どうしたのでしょう」
「セフィライズが残存していた世界樹の根をマナに変換させましたからね。同時に消えました」
ヘイムダルの答えが少しわかりにくくて、スノウは首を傾げる。
「『世界の中心』がこの世界に無理やり引き抜かれ、それを」
「ヘイムダル、もう……」
あまり話してほしくないと、セフィライズはヘイムダルの発言を止めた。
世界樹の新たな種子である『世界の中心』は、以前存在した世界樹の大切な次の命。無理やり引き抜かれたそれを探すように、大地に這っていた以前の根がその姿を成した。それが壁だった。
しかし宿木の剣で残存していた世界樹の根をマナへと変換したと同時に、消えてなくなったのだ。
「あの、どうして……」
スノウが不思議そうに首を傾げる。彼は一呼吸置いた。
「……壁は、世界樹の一部だった。マナに分解したから、無くなった」
「そうなんですね」
スノウは何か情報が足りないというのはわかったが、しかし何が足りないのかはわからなかった。頑張って振り返り彼の顔を見上げるも、遠くを眺めるだけで特段変わりないように見える。ただ、少し昔の彼と似ているのは、今はとても遠いところにいると感じるからだろうか。
彼らは何日かに分けて進んだ。
スノウは壁がない世界を初めてみる。突然変わってしまう向こう側ではない、段々と地面が変化していく様を空中から眺めるのは、とても新鮮だった。全ての距離が離れてしまったのか、それとも壁があった場所が曖昧になっているのかすらわからない。スノウ自身、そもそも壁の向こう側が元々その場所だったのかを知らない。
北へ向かう途中、どこかで見た森が視界に飛び込んできた。鬱蒼としていて、低い雲がまばらに多い、そして次第に雨を降らせ始めた。
「ここは……」
そう、ここは。馬車に乗せられ黒髪に偽装した彼と共に歩いた場所。そしてもう一度訪れた時、瀕死の彼の髪を切り、壁を越えようとした場所。
森の続く先が途切れている、すぐに乾いた黄土色の大地と痩せた木々に土煙、その間を割るようにして流れる大人しい川。壁を越えて見たコンゴッソの大地だ。
セフィライズが合図をすると、ヘイムダルは東の方へと体を向け進んだ。痩せた大地、空から見るとこんなにも何もないものだろうか。
しばらくして見えてきたのは、復興途中のコカリコの町だった。そのすぐそばにあったはずの壁はなく、遠く向こうはアリスアイレス王国があるはずだ。
「降りて、休憩しよう」
彼の言葉とほぼ同時、スノウのお腹がなった。彼女は恥ずかしくて腹に手を当てる。彼が少し笑ったのが声でわかると、さらに恥ずかしくなり顔を赤らめた。
ヘイムダルが直接コカリコに降り立つと騒ぎになる。彼らは少し離れた場所に降り立った。ヘイムダルには申し訳ないが、しばらく待っていてもらうと二人で街へと向かう。




