34.道の途中編 裏切り
ウロボロスはウルズの泉の奥、石の扉を破壊し中へと上半身を入れる。何かを掻き出すような動きをした後、体を起こし天を仰ぐと耳を劈く咆哮を上げた。水がその音で波打ち飛沫が浅瀬にいるスノウ達へとかかる程だ。
胴体以外のすべて、頭部、両手両足がはっきりとした姿になる。いまだ黒い粒子がまとわりついた体は膨らみ、手足と頭の小ささで異様な均衡を保っていた。
「どうして……」
ウロボロスを見ながらセフィライズは呟いた。それはいまだ自身が出した答えが受け付けない、兄に対して言った台詞だ。それをネブラは嘲笑う。
「どうして? あたしの国は壁の中のマナが無くなって滅んだ。あんたらが私利私欲の為に『世界の中心』を独占し、壁なんか作るから! そのせいで、どれだけの人間が死んだと思う? これは報復だよ」
私利私欲の為に。その言葉がセフィライズの心を抉った。
『世界の中心』と離れる事ができない。セフィライズ自身が器なのだ。その中に、魂と世界樹の種子である『世界の中心』が混在している。
理解した時、この『世界の中心』を解放しよう、芽吹かせよう、とは思わなかった。もうこの世界には、それができる手段もマナも存在しないと分かっていたからだ。
だからもう、どうでもいいだろう。このまま何もせず死ぬんだろう。
それを私利私欲と言われれば、そうなのかもしれない。努力をしなかった、求めなかった、抗わなかった。
「あんたを殺してやりたいところだけど、一対一じゃ分が悪いからね」
ネブラはナイフを収める。ウロボロスがその巨体を揺らしながら再び森の向こうへと走り出すのと一緒に、ネブラもまたその後に続いた。
セフィライズはそれを追わなかった。いや、追えなかった。胸に手をあて、何を考えていいのかすらわからない。宿木の剣の柄を強く握り締めた。
ウロボロスとネブラが去ると、嵐が過ぎ去った後のように、荒廃した雰囲気と静けさが残った。
スノウは下を向いたまま立ちすくむセフィライズへと歩み寄る。彼の腕にそっと触れるも彼はチラリともこちらを見なかった。
「セフィライズさん?」
スノウの声を聞いてやっと顔をあげ、彼女の青緑色の瞳を見つめる。セフィライズはスノウの向こう側へと目をやった。ウルズの泉の浅瀬に倒れる血だらけの一角獣。立ったまま動かないテミュリエと、既にこちらに向かって歩いてくるヘイムダルの姿。
「大丈夫、ですか?」
スノウは彼の表情が、今まで見たこともない酷いものだと思った。まるで絶望の淵に立っているような顔をしているのだ。
「……」
声を出そうと思ったのに、何も発することができなかった。血まみれのテミュリエと、口元に血痕のついたスノウ。状況を見て、何が起きたのかすぐわかったのに。
彼女が不死者になる呪いから解き放たれたとわかったのに。何も、言えないのだ。
兄さんに裏切られているかもしれない。
それが、彼を絶望の淵へと誘っている。
「セフィライズ、これは元は不死者だった者達の残骸です。あまり置いておくのはよくない。王の写本を使えば全て回収できるでしょう」
彼の近くまで歩いてきたヘイムダルが声をかけるも、セフィライズは彼を見つめただけで動けなかった。
「セフィライズ、どうしましたか? 穢れは長く置くと広がる。早くしなければ」
このエルフの森が住むことすらできない土地になってしまう。それが徐々に広がって、大地のマナを穢して、そして。
「わかった……」
酷く掠れた声しか出なかった。置き去りになっていた王の写本を拾い上げ、背表紙からナイフを抜く。虚な瞳のまま自身の手を切り、宙に浮き白紙を見せる王の写本へと血を落とした。浮かび上がるそれを両手で持ち、転がる死体に向ける。ただ考えればいい。この王の写本に吸い込ませる事を、想像しながら目を閉じた。
スノウは全てが終わった後の彼のもとへ歩み寄った。片手でその大きな王の写本を抱え込み、もう片方には宿木の剣を握りしめながら下を向いている。彼の目の前に立ち、剣を持つ方の手へ触れた。
セフィライズは王の写本を持つ手を緩めると、重みで自然と落下する。スノウがそれに気を取られたのと束の間、彼のその手がスノウの手を掴んだ。
「セフィライズさん?」
彼が顔を上げた瞬間、ほんの少しだけ引き寄せられ、ゆっくりとスノウの肩に彼の頭が落ちてきた。
額が当たる。前に礼をするようにセフィライズは彼女へ体重を預けた。
「ごめん……」
辛い。
そう思ったことは、無かった。
こんな産まれだから、仕方ない。
全部仕方のない事で、どうしようもない事だから。
「全部……俺のせいで、ごめん」
スノウが大怪我を負い、生死を彷徨ったのも。声を失い、一度は死を覚悟したのも。彼女の信仰心を穢しているのも。
マナが枯渇していく世界に、唯一何かできるはずの自分が、何もしようとしなかった。
だから、そもそも彼女の家族が殺され、無理やり連れてこられたのも。
全部、全部。
私利私欲に使ったつもりなんてない。それでも、セフィライズという存在が壁を生み出し世界を断絶させた原因。
マナの濃度に大きな差が生まれ、滅んた国や土地は後をたたない。
だから、何もしてこなかったから。何もしようとしなかったから、シセルズは邪神の復活に加担する方法を選んだのだろうか。
これは、報いなのだろうか。
「少し……休みましょう。セフィライズさん」
スノウはその頭に、優しく手を当てた。ゆっくりと、抱くように撫でる。
こんなに辛そうにしている彼を、見たことがなかったから。
「わたしが……」
わたしがこの人を、必ず光の中へ連れて行くんだ。




