2.魂の回廊編 記憶を辿る
スノウが次に立っていたのは、どこまでも広がる闇の中、深淵のような場所だった。どこからともなく水が滴り落ちる音が聞こえ、波紋が広がっているのがわかる。
ふと、目の前に子供が倒れているのだ。白き大地の民だとわかるその子に、スノウは慌てて駆け寄った。
「大丈夫ですか!?」
うつ伏せで倒れるその子を、抱きかかえようと手を伸ばしたのに、触れることができなかった。体をすり抜け、そして一瞬にして闇の中に世界が広がった。
白い石が丁寧に積み上げられた建造物。植栽の木の幹すら白く、生い茂るのは大地と同じ萌黄色。宙を舞い運ばれてくるのは白い花弁で、振り返ると木々には花が満開に咲いていた。空は高く澄んでいて、気持ちの良い風が走っている。
「おい」
声をかけられたと思って、スノウは思わず返事をしてしまう。振り返ったそこに立っていたのは。
「シセルズさん?」
肩ぐらいまでに真っ直ぐ伸びた銀髪。ただ、右目は銀色だというのに、左目尻に刻印の彫られたその瞳は金色だった。先ほど白く輝く人を一瞬見た、黄昏の色を宿した瞳の色にとてもよく似ている。そして何より、スノウが知る彼よりとても若い。
スノウに向かって真っ直ぐ歩いてくるシセルズを避けようとするも避けきれず、ぶつかると思った瞬間彼はスノウの体をすり抜け行ってしまう。真っ直ぐに、うつ伏せで倒れている子供の元へ向かっていた。
「おい、起きろ」
まるで物を扱うかのように、シセルズはその子供を足先で押し仰向けにさせる。その子供の顔を見て、はっきりと彼だとわかった。
「セフィライズさん?」
再び駆け寄り、仰向けになった幼い彼の元へ。跪き手を伸ばして触れようとするも、やはり触れる事はできなかった。よく見ると彼は全身があざだらけで、袖のない服から覗く両腕は血が染みた包帯がまかれていた。
「父上が来いって。聞こえてんだろ、意味わかるか?」
虚な目のまま、まるで生きた人形のように表情一つ変えずに返事もしない。シセルズは幼いセフィライズへと手を伸ばし、無理やり体を起き上がらせた。
「起きろよ」
「待ってくださいシセルズさん!」
怪我だらけなのに無理をさせてはいけないと、スノウが再び遮ろうと手を伸ばす。しかし触れられないのだ。
先ほどの白く光る男性の言葉を思い出す。魂の回廊を進むといい。その意味は、おそらく。
これは、彼の魂に刻まれた記憶の中。
シセルズは無理やり立たせると腕を掴んで強引に引っ張って行ってしまう。何もする事ができない、ただ見ているだけの世界が再び切り替わった。
再び白き大地の民だろう男性が、とても大きな本を空中に浮かせながら声を発している。本の背表紙に備え付けられたナイフを取り出し、かたわらに寝かされている子供のセフィライズの腕を切った。その本で血を受け止めると、ゆっくりと吸収されてなくなっていく。何度ナイフで刺されようとも、声一つあげずただ血液だけがその本に吸い込まれていくのだ。
それからは全て、似たような記憶のかけらだった。ただ殴られて、ただナイフを向けられて。そして血は全てその本が受け止める。吸収されて消えていく。全てが終わるとまるで物のようにまたどこかへ連れて行かれるのだ。
スノウは胸が痛かった。本当に、物のように扱われているから。あんなにも弟を大切にしていたはずのシセルズもまた、彼の事を本当に何か道具かのように扱っているのだ。生きたものを見る目ではなかった。
石作りの冷たい部屋、ろうそくが一本灯っているだけ。その部屋のベッドの上に幼い彼が寝かされている。スノウはもう見たくなくて、顔を手で覆った。
「どうして」
そう彼女が呟いたとき、幼い彼が体を起こす。
「だれ?」
見えていないはずなのだ。聞こえていないはずなのだ。だからスノウは顔をあげて、ベッドの上で体を起こしている彼を見た。
「だれ?」
もう一度、はっきりとスノウの方を向いて問いかけられる。
「見えて、いるのですか?」
「みえない。きこえる」
ここは記憶の中のはずなのに。今、子供の頃の彼と話している。スノウはベッドのそばに近寄って、手に触れようと伸ばす。しかしやはり触れれなかった。まだ小さな幼い手に、触れているかのように手を置く。
「大丈夫ですか? 今、治しますね」
使えるのか使えないのかわからない。でも彼を癒したいと思った。
「我ら、癒しの神エイルの眷属、一角獣に身を捧げし一族の末裔なり、魔術の神イシズに祈りを捧げ、この者の穢れを癒す力を我に。今この時、我こそが世界の中心なり」
スノウの体からマナが溢れ、幼い彼を包む。光が弾け、見るとしっかりと。
「よかった……」
彼の身体中の怪我がなくなっていた。心から安堵して、涙が溢れる。きっと幼い体に刻まれたものは、痛みだけじゃない。それでも、少しでも助けになったのなら。
「だれ?」
再び、幼いセフィライズが声を出す。気がつくと、スノウの手はしっかりと彼の小さな手に触れていた。
「未来で、会えますよ」
スノウは彼の小さな手を、自身のてのひらに乗せ両手で包み込む。満面の笑みでセフィライズに語りかけると、彼の虚な目にほんの少し光が灯る。不思議そうに首を傾げられた。
「どうし、て」
その先の言葉を聞くこともなく、突然全てが消えた。
目の前に鏡でできた道が現れる。空中に浮いた割れた記憶の断片が見せるのは、全て彼の思い出だろうと思った。
炎に包まれ堕ちる神殿の中にいる彼。初めてシセルズを兄と認識した時。剣を握り人を殺した日。沢山の記憶の欠片の中で進む、その光の先に扉があった。




