5. 安息のひととき編 抱っこ
スノウの治癒術で、切り付けた左腕だけではなく、治りかけていた肩を刺した傷も全て癒された。セフィライズは何事もなかったかのように、自由に動くようになった左腕を回して伸ばし、スノウへ向き直った。
「ありがとう」
「いいえ。よかったです」
スノウは胸に手を当て目を閉じる。こうやって、彼の全ての痛みを、抱えているものを、取り払えたらどんなにいいだろうかと。その服の下に隠された腫瘤は、きっとそのままなのだから。
「じゃあ、行こうか」
「どこに、ですか? ひゃっ!」
セフィライズがスノウの両膝裏に左腕を回す。彼の右手は肩を引き寄せ、スノウは抱きしめられると思った瞬間に軽々と浮かされた。抱き上げられた、という事実を理解するのに時間がかかる。
「あぁ、ああ、あの。あのっ!」
「外に行こう」
「お、重いです! 降ろしてください!」
「重くない」
こうやって、抱き上げられるのは二回目だ。大怪我のせいで意識が朦朧となっていたから、恥ずかしいだなんて感じる余裕がなかった。しかし今は。
「は、恥ずかしい……」
スノウはこんな風に抱き上げられる経験が無かった。だからこんなにも不安定で、少し怖いものだとは知らなかった。セフィライズを信用していない訳ではない。ただ浮いているという状態が、両膝裏と背中に回された腕だけで支えられているという事実が、ちょっと怖いのだ。手を動かし、思わず彼の胸元の服を手繰り寄せるように掴んでしまった。
セフィライズは服を手繰りよせられ、その時を思い出す。ルードリヒに切りつけられ、彼女を抱きかかえて走った時だ。彼女が何か、必死に伝えようとしていた。その言葉を聞いた方がいいのだろうかと思った。しかし。
目を閉じる。聞けば、きっと自身もまた、答えなければいけない。あの時とは状況が変わってしまった。
「セフィライズさん」
「どうした?」
「わた、し……」
スノウは思わず伝えそうになる。しかし、言葉は失速してしまった。
「すみません。なんでも、ありません」
変化が怖いのに、変わる事を望むのは何故だろう。
困るとわかっているのに、迷わせる事を言おうとするのは何故だろう。
今を大切にしたいのに、この先を作ろうとするのは、何故だろう。
スノウは目を閉じ、首を振る。伝えない、この気持ちを、彼には絶対に。
今を、大切にしたい。
変わるのが、怖い。
セフィライズに連れられて、スノウは庭に赴いた。素足で立つと感じる土の柔らかさ、草木の香りがする風、久々に感じる太陽の暖かさ、どれもとても気持ちがよかった。
彼の肩を借りながら歩く練習を始める。今は全ての雑念を振り払い、まずは一人で歩けるようにならなくてはと練習に励んだ。
それからの日々は、本当に穏やかだった。彼はスノウの歩行訓練に付き合いながら、しかし彼女が一人で歩けるようになると近くに座り、本を読む。たまに他愛のない会話をし、スノウの笑顔を見て、心に灯る暖かさに目を閉じ共に笑う。
知らなかった気持ちを、今は大切にして、そして端に置いておくのだ。彼女の全てを守ると、決めたから。困らせるような事を、伝えたくない。彼女の意思を、尊重したいと思っているから。
たまには二人で庭のベンチに座って食事を取った。外の優しい風に吹かれながら。
スノウは膝に置いた油紙を広げると、ローストビーフや玉ねぎなどの野菜が挟まっている、平に伸ばして焼いた薄いパンを取り出した。お腹が空いていたのもあって、すぐに食べきってしまう。隣を見ると、まだ二口程しか進んでいない彼の姿。
「お腹、空いてませんか?」
「いや……」
彼は無表情ながらも下を向いている。もう一口かじろうと持ち上げて、しかし食べたのはほんの少しだった。
スノウは彼がお昼をあまり食べないのは知っているけれど、どうも様子が変だなと思う。何となく、最近はあまり食べていないように見えるのだ。
「……最近、食が細くなられましたか?」
彼のその表情は、おそらく図星だったのだろう。しかし繕ったような笑顔を向けられて、すぐに食べ始めた。
「無理して、食べなくていいと思います」
「無理はしてない。本当に……」
何か続けられるはずだった言葉が消えてなくなったのがわかった。いつも彼は言葉を止める。
止まったその先は。聞いても答えてはくれない。
スノウは話題を変えようと手を叩いた。
「セフィライズさんは、お好きな食べ物って、あるんですか?」
笑顔を向けて質問され、彼は口元に運んでいたパンを持つ手を膝の上に置いた。
「そうだな、木の実類は全部、好きだよ」
彼が懐かしむような表情を見せる。その横顔を見て、スノウも一緒に微笑んだ。
「木の実ってたくさん種類ありますよね。その中でも、一番お好きなものはありますか?」
「あぁうん。少し前に食べたかな。コゴリって言う木から採れる」
セフィライズが説明するに、とても背の低い木らしい。葉がくるりと捻れていて、幹は灰色に近い。実は黒い殻に覆われていて、手で簡単に割る事ができる。出てくるのはポロポロと崩れていくような食感のする白い色の木の実。雨の日の朝に収穫すると非常に苦いが栄養価が高く、晴れの日の朝に収穫すると重厚な味がするらしい。
「あれは、美味しかったな……」
スノウは彼の話し方に少しだけ違和感を覚えた。何だかまるで、もう二度と食べられないと言った意味を含んでいるように感じたからだ。
「高いのですか?」
「いや、あまり手に入らないって意味かな」
スノウは売っているところを見たら、必ず買っておこうと思った。
彼女が順調に回復していくと、セフィライズはアリスアイレス王国に帰る日が近づいていると感じるようになった。
夜、セフィライズはほの明るいランプの光の中で、手紙をしたためる。最初の一通は、カイウス宛だった。カンティアでの出来事をまとめ、今後の所見などを綴る。いわば報告書だ。それを書き終え、一度ペンを置く。揺れるランプの光を眺めながらこの先をどうするのか考えた。
本当に、アリスアイレス王国に戻るのか。それとも、カンティアとは壁境界にあるベルゼリア公国の宿場町アベルを治めるザンベル辺境伯に会いに行くのか。
胸に手をあて目を閉じる。少し前の自分なら、きっと真っ直ぐにアリスアイレス王国に帰っていた。それが、命令だからだ。しかし今は、戻りたくないと思う。それは。
もう、残されていないと、思うから。
このまま、未来も何も描かないまま。何もかも諦め、抗わず、ゆっくりと。
それでいいと、ほんの少し前の自分なら、思っただろう。
やるべきことはある。
あのタナトスになる小瓶の出どころも、目的も何も、解明できていない。邪神の封印もそうだ。アリスアイレス王国にある封印を、暴こうとするものが必ず現れるはずだ。
全て使って、少しでも。そう強く思うのはきっと、スノウがいるから。
この先を
彼女の未来を、少しでも綺麗にしておきたいと思うから。
カイウス宛の報告書を作り終えて、すぐにもう一通、手紙を書いた。
これは、自分自身の意志を、伝える為の手紙。
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