1. 安息のひととき編 音
ミシミシと、何かがめり込む音がする。
体を這っていく。進んでいく、縛り付けていく。ゆっくりと。
小さな音が、耳に聞こえる。
ミシミシと、音を立てて。
広がっていく。
真っ白な空間に、白い人型の何かが立っている。顔も、体も、何も見えない。しかし相変わらずそれは、うっすらと笑っているように見える。
『どうして』
はっきりと顔がないはずのその白い人から、確かに見られた。
セフィライズは、今自分がここにいる事に戸惑い手を持ち上げて見る。しっかりと、自身の手のひらだった。
『希望なんて、持とうと思えるのか』
白く淡く光る手がのびる。持ち上げた手に触れられた。
『僕は、停滞している方が好きだったよ。セフィライズ』
顔がよく見えないはずだというのに、はっきり笑われたのがわかる。
『運命は変わらない。終焉は必ず訪れる』
「……誰?」
質問に対して不敵に笑われる。その白いモヤをまとっている人がセフィライズを見た。次第に白が剥がれ落ちるかのように、はっきりと。視界に映るその人は。
『僕はーーーー』
セフィライズが目を開けると、日は高く大きな窓から外の光をいっぱいに取り込んで、天井に白い跡を残している部屋にいた。草木が揺れる影が一緒に写り、穏やかな風が入ると淡い水色のカーテンが優しく揺れる。
静かだった。だから、妙に音が耳に残っている。
あれは一体、なんだったのだろう。
彼はしばらくぼーっとその天井を眺めた。体を勢いよく起こすと、固定された左腕が痛んで思わず前屈みになってしまう。スノウを助けようとして、自分を刺した事を思い出した。
「スノウ、スノウは……」
いつ眠ったのかすらわからない。どうしてここに寝かされているかもわからない。確かあの日、彼女の手を握り、そして心から誓ったはず。戻ってきたレンブラントとほんの少し話したような気がした。その後の記憶が非常に曖昧。
ベッドサイドに置かれたスツールの上に、逆さまに置かれたコップ、水の入ったピッチャー、そして袋に入った薬。手を伸ばすと確かに何粒か飲んでいるのか、袋に雑に書かれた量よりは減っていた。しかし彼は飲んだ記憶もない。
ベッドから足を下ろし、素足のまま立ち上がる。縫合を受けた時に着替えたままの服装だった。部屋を出てスノウの元へ急ぐ。足を踏み出すたびにジンジンと左腕が痛んだ。彼女がいるのは一階の部屋。階段を降りようとした、その時。
「セフィライズ様」
目の前の階段を上がってくるレンブラントと鉢合わせた。驚いた表情を見せた彼が、セフィライズに近づいくると頭を下げる。
「起き上がって、大丈夫ですか」
「あぁ、うん。スノウは」
「まだ眠ってらっしゃいます」
そう聞いて、セフィライズはほっとした。それは、生きている、という事だから。そのままレンブラントの横を通り過ぎ、駆け足でスノウのところへ向かおうとする。レンブラントから呼び止める声が聞こえたが止まらず、彼女の眠る部屋へと入った。
あの日、ナイフで自身を切り飛んだ血は、ベッドのフレームに少し残るのみ。真っ白な布団をかけられた彼女は、静かに寝息を立ていた。
よかった、と。
心から思って、ベッドのそばに駆け寄って、膝をついて手をとった。
大丈夫、生きている。
「セフィライズ様、あなたも安静にと言われておりますので。食事をとって横になってください」
追いかけてきたのであろう、レンブラントが遅れて部屋に入ってくる。
「安静に? 左腕だけなら、別に安静になんて」
「覚えて、らっしゃらないのですか」
「何を……?」
レンブラントは複雑そうな表情を浮かべる。どうやら、何かを忘れているらしいが思いだせず首を傾げた。
「何日、たった?」
レンブラントの反応から、セフィライズ自身は昨日の出来事だと思っているものが、昨日ではないのだと知る。あの時から、どのくらい日数がたったのだろうか。
「二日ほど、眠られていましたよ」
そんなにも大量に、マナを消費してしまっただろうか。そんなに酷い怪我でもなかった。どうして目覚めなかったのか、本人すらわからない。ただ、唐突に。あの音が蘇る。
ミシミシと、何かが、締め付ける、音。あれは。
自由に動く右手を、胸に当てた。そのザラザラとした、跡を指でなぞる。続く先へ、辿って。そして。
「大丈夫ですか」
レンブラントはセフィライズの顔色が悪くなったのに気がついた。膝をつく彼の肩に手を添える。胸に手を当てているのが見えて、さらにレンブラントの表情が曇った。
「今朝の分は、飲まれましたか」
「……なに、いや……飲んでない」
セフィライズは何を、と言おうとした。しかしスツールの上に置かれた薬である事は察しがついた。何かの説明を受けたのかもしれない。しかしそれすらも何も、記憶にない。
「何が、あった?」
記憶にないのだから、説明を受けなければわからない。レンブラントは首を振り、一旦部屋へ戻るよう促してきた。この場所に居続ける理由を作ることもできず、素直に部屋へ戻る。
彼はスツールに置かれた薬を手にとった。ベッドのふちに座り、その袋から錠剤に固められた緑色の粒を一つ取り出す。
恐らく、これが何から作られているのか察しがついていたが、確かめるために一粒噛む。最初に苦味がきてすぐ酸味の強いエグ味に変わる。だというのに、最後に舌に張り付いたような甘みが口の中に違和感を残していた。この味を、知っている。粉末状のものなら、何度か口にしたことがあった。これは。
「お食事をお持ちしました」
レンブラントが扉を開けて、トレーの上に乗せられた料理を持ってくる。セフィライズは素直にベッドの上に全て足を乗せて座った。
出されたものを黙って頂く。左腕が使えないせいもあり、皿を支えるのに苦労した。ただ先ほど噛んで食べてしまった薬のせいで、口の中に変な甘味の膜が張ってる気がして、食べ物の味が奇妙に感じられる。




