外伝 解氷の聲4
今日中に戻れなくて、多くの人に迷惑と心配をかけてしまう事。いまだ雪火草を手にできていない。明日戻ったらどうなるのかという不安。
リシテアは胸の中から気持ちが溢れ、大声をあげながらさらに泣いた。泣き声の中、早く雪火草を手にいれたい。早く帰りたい。お母様に会いたいと言っているのが途切れ途切れでセフィライズの耳に届く。
大泣きするリシテアを目の前にし、セフィライズは困惑していた。彼女の後ろで身動きができない。泣き続ける小さな女の子を見下ろして、眉間に皺を寄せる。
必死に考えた。何をしたらいいのか。どうしたらいいのか。
セフィライズは目をつむると、遠くで兄の声が聞こえた気がした。
ずっとずっと昔の事。セフィライズがまだもっと、幼かった頃の事。その頃の記憶は曖昧だ。今よりもっと、感情もなく、人間にそっくりな何かだった。
断片的に。セフィライズの記憶に、断片的に残る。
兄に抱きしめられる。耳元で、辛そうな声で言われるのはいつも「ごめんな」の一言だった。
何か謝られるような事をされた記憶はなかった。幼いころの体には無数の生々しい傷跡があったが、それをつけたのが誰なのかも、何故それがあるのかもわからない。ただシセルズは顔を歪ませて、ただ謝っていた。
なぜか、抱きしめられた時にいつも、心が安らいだ気がしたのだ。手から伝わる体温が、何か大きな安心を与えてくれている。その記憶から、セフィライズは自然とリシテアを抱きしめた。小さな体はすっぽりと腕の中におさまってしまう。
「雪火草は、私が取りに行きます。安心してください」
しばらく何かを叫ぶようにして大泣きしていたリシテアが、静かになり眠るまであまり時間はかからなかった。その体を優しく寝かせ、布団をかける。寒くないように気を使い、顔にかかる髪を横に流した。
リシテアが目覚めたのは明け方、日がまだ登り始める前だった。吹雪はすでにおさまっており、空は快晴だった。暖炉の火は絶えず燃えていて、その前にセフィライズが座っている。なぜかそれをリシテアの兄、カイウスだと思った彼女は名前を呼んだ。
「はい」
呼ばれて振り返ったのはカイウスではなくセフィライズで、しかもなぜか彼は全身傷だらけで額にはべっとりと血がついている。リシテアは慌てた。
「セ、フィライズ……! どうしましたの、その……!」
リシテアの目の前に、一本の雪火草が差し出された。恐る恐る受け取ると、しっかりとした太い茎の先に、燃えるような赤の繊細な花弁が幾本も上へのびて広がっている、大輪の花だ。見るとセフィライズは、初めて見せる優しい表情で微笑んでいた。
「あなた、まさかこれを……」
近づくとセフィライズから獣の匂いがした。よく見ると衣服は食いちぎられた箇所がある。
リシテアが眠っている間に、きっと彼は雪火草を取りに行ったのだ。そして野獣に襲われてしまった。
「ごめんなさい」
「何故、ですか?」
「え?」
「兄もよく、私に謝るのですが。それは、何故ですか」
リシテアはすぐに、セフィライズが何を言いたいのか理解した。言葉が足りないのはわかっていた。伝えたい事は、聞こえる音だけではない。
「そうね。それは……シセルズが、あなたを愛しているからでしょう」
リシテアはその言葉と共に、カイウスの事を思い出していた。時には厳しく、しかし優しい兄。わがままを言うリシテアを諫め、時には抱きしめ諭してくれる。その行動に、リシテアはしっかりと愛情を感じていた。だから、きっと同じだと思った。シセルズもまた、心から大切にしているからこそ。
「……よく、わかりません」
「フフ、セフィライズは本当に。年相応に見えませんわね。まるで子供じゃない」
真っ白だ。きっと、今のセフィライズはまだ真っ白なのだ。アリスアイレスに降り積もる雪のように。でも必ず、色付く日がくる。楽しいとか、悲しいとか、辛いとか、そういった気持ちがわかるようになっていくはず。
「わたくしと一緒ね」
その何もない彼に、色をつけたい。リシテアは自然とセフィライズの手に触れた。
世の中はこんなに綺麗で、美しくて、楽しくて、生き生きとしている。いつかわかる日かくる。いつか大切にされている事を、想われている事を理解して。
そして、別の誰かを、愛する日が必ず来る。
二人がアリスアイレス王国に戻る頃には、丸一日以上が経過していた。もちろんこってり怒られたが、一番怒られたのはセフィライズだった。第一王女であるリシテアを危険に晒したと、一か月の謹慎処分と慈善活動を言い渡され、リシテアの近衛を解任された。
程なくしてリシテアの母ユージュリアは賢明な治療も空しく崩御。悲しみに暮れる暇もなく月日はたち、リシテアが七歳になったある日の事だ。たまたま、セフィライズと再びあの湖へ、エシレリーナ湖へと赴く事があったのだ。エシレリーナ湖周辺の整備をする兵士を労いまわるリシテアは、おもむろに地面へと手を伸ばす。今度は自身の手で雪火草を摘んだ。その花を手に、湖を見ているセフィライズの元へと歩く。
「……わたくし、あなたのことが好きです」
一年前より大人びて身長も伸びたセフィライズに雪火草を差し出す。
あなたは覚えていますか。この花の事を。あの日の事を。その気持ちを込めた。
「思えばあの時から、わたくしはあなたが好きでした」
セフィライズは差し出された雪火草を受け取る。以前より表情が豊かになって、会話もうまくなった。まだおぼつかない足取りの子供のような彼だが、以前よりしっかり歩いている。だから、伝わると思った。この気持ちが。この言葉の意味が。
「ありがとうございます。すみません。好きが、よく……わからなくて」
「まだ、わからないのね。それとも、わかりたくないのかしら。知ってしまったら、今度は失うのが怖くなる。だから、知らないままのほうがいいのでしょう?」
「どういう、意味ですか」
「あなたの心に、灯すのはわたくしではないのね……」
特別に思ってもらいたくて、セフィライズの手をとっていろんな世界を見せてきたつもりだった。真っ白な彼に少しずつ色を、灯したつもりだった。けれど特別に想ってもらう事はなかった。
でも、いつかきっと。愛されるという事を理解して、愛するという事を理解する日がくる。
いたずらっ子のような笑顔で「自分で考えなさい」と言って見せる。そして自然に、リシテアは目をつむった。セフィライズの特別になるであろう、いつかの、誰かを想う。その時のセフィライズはきっと、もっと心から、人間らしく、人間として、穏やかに過ごしているであろうから。
end




