60.赤い晩餐編 取り乱す
隣の部屋へ、一旦全員入る。薄暗い部屋に明かりを灯したレンブラントは、中央にあるテーブルセットの椅子を引いてリシテアを座らせた。ミジェリーが慌てて持ってきたローブをリシテアにかける。別の女性従者がバケツに湯を入れ、タオルを持ってくると座ったリシテアの足を丁寧に拭いていた。
医師の男性はその横に座り、リシテアに丁寧に挨拶をする。リシテアもまた、自身の身なりを謝罪しつつも、この場に来て治療を施した事を労った。
「それで、スノウはどうなのですか?」
リシテアは前のめりになりながら説明を求める。ゆっくりと、医師の男性は口を開いた。まず、怪我の具合と治療内容についてだった。
比較的深かったのは腹と太ももの傷なのだが、しかし全て重要な器官は外れており、縫合のみで問題ないとのことだった。手足の切り傷も浅く、こちらも簡単な治療のみ。四週間の安静の後、歩行訓練。将来的に歩く機能に問題が残る事も少ないだろう、とのこと。
ここまでの説明で全員が胸をなでおろす。しかし。
「ただ、出血量が多かったので。今日が山、でしょうか」
その一言で、リシテアは顔を真っ青にしながら声を上げようとした。それを、遮るようにセフィライズが声を発する。
「今、なんと言いましたか……?」
リシテアが振り返ると、部屋の入り口付近で立ち尽くしているセフィライズの姿。愕然とした表情のまま、真っ直ぐ医師を見ている。
「スノウさんは予断を許さない状況ということです。今日を超えられるかは、彼女の生命力次第でしょうか」
その説明が、鈍器のようにセフィライズの頭を殴った。つまり、それは。
「スノウが死ぬかもしれない、ということですの?」
リシテアの小さく丁寧な言葉が耳に届く。そうだ。死ぬかもしれない、ということだ。
今日、この時が。最後かもしれない、ということ。
まるで走馬灯のように、セフィライズの脳内に幾重にも折り重なって思い出す。
スノウが振り返るその瞬間。
照れたように笑っている姿。顔を赤らめて下を向き、自身の癖毛を触っている。その全てが今まで何の意識もせず、当たり前のようにそばにあった。気がついたらそこにいて。気がついたら笑っていて、気がついたら。
————セフィライズさん、大丈夫ですよ
スノウの声が聞こえた気がした。
抱きかかえた彼女は軽かった。スノウが必死に何か伝えようとしていたのに。あの時は、それどころではなかった。だから。
————わかった、後で聞くから。今は黙って。
そう答えてしまった。あの時彼女は、何を、言おうとしていたのか。
あなたに、お話ししたい事があります。そう言っていた、彼女の言葉を。もう二度と聞けないかもしれない。
何を言おうと、していたのだろうか。
セフィライズはリシテア達に背を向け部屋を出た。スノウのいる隣の部屋へ入ると、ベッドのそばで膝をつき、目を閉じるスノウの手をとる。彼自身よりも小さな手には、かすり傷がたくさんついていた。柔らかくて、人肌の、いつも通りの彼女の手だ。
本当にただ寝ているだけに見える。だというのに、もう目を覚さないかもしれない、だなんて。誰が想像できるだろうか。
嘘ではないのか。明日には、いつものように。
頭が真っ白になって、動揺を隠せないまま気がついたらナイフに手が伸びていた。それをセフィライズ自身の左腕に突き立てると、スノウの眠るベッドの上に血飛沫が花びらのように飛んだ。
「我ら、世界を創造せし魔術の神イシズに祈りを捧げ、我の灯火であるマナを分け与えよ。今この時、我こそが世界の中心なり」
スノウの手を強く握る。新たに切り裂かれた左腕から溢れる血液がマナに変換されスノウの体を包んだ。しかしこれは無意味なこと。傷が治る訳ではなく、栄養を補給するぐらいの効果しかない。
そんなことはわかっている。わかっていて、これぐらいしかできないから。セフィライズ自身、唯一治癒術だけは使えない。
ただ、居ても立ってもいられなかったから。失いたくない。もう一度あの時、何を言おうとしていたのか、聞きたい。まだ何も聞いていないのに。伝えてもいないのに。ここで終わりたくない、終わらせたくない。
セフィライズを追いかけてきたレンブラント達が魔術を使う姿を目撃する。
彼から大量のマナが流れ、段々と、体を支えられなくなっていく。しかし、まだ足りない。もっと、もっと。セフィライズはそう思い、ナイフを再び握りしめ、左肩へと突き立てる。苦痛に歪む声を押し殺し、それでも足りないと思う。
今痛いのは、自分を傷つける痛みじゃない。今痛いのは。
その光景を見たレンブラントが、セフィライズの体を慌ててベッドから引き剥がした。
「やめてください! 死にます!」
「離せ!」
レンブラントが落ち着いてくださいと声を上げながら、暴れるセフィライズを取り押さえた。ナイフが音を立てて床に転がる。
「俺は、何もいらない! 腕でも、足でも……使ってくれていいから……」
どうしてだろう。材料ならいくらでもあるのに。あとは、治癒術を使える人がいればいい。それで助かるのに。どうして使えないのだろう。どうして、癒す事だけはできないのだろうか。悔しくて、悔しくて。
「落ち着きなさい!」
リシテアが大声をあげ、レンブラントに捕まえられているセフィライズの前に立ち、その頬に平手打ちをした。はっきりとした目で彼を見上げる。
「あなたは材料なんかじゃない! 生きています! 生きていますの!!」
彼は苦々しい表情のまま、力が抜けたかのように座り込むと、その腕をレンブラントが支えるように掴む。
「俺は……」
どうせ、と続ける言葉を止める。
生まれのせいで、人ではない扱いを受けてきた。髪も、目も、他と違う。血肉全て、魔術を使うと跡形も残らずマナに変換される。決定的に違うのだ。材料でしかないと、痛い程に思う。彼自身がそう、ずっと……思って生きてきたのだから。白き大地の民は、マナに変換されれば死体すら残らないのだから。
お前達は人間じゃない。
そう言われている気がして仕方ない。
だから。
人間じゃないから。
「セフィライズが死ねば、わたくし達が悲しむのよ!」
泣きそうな顔をしながら、リシテアが怒っている。それを見て、シセルズの言葉が頭によぎった。
――――セフィ、俺と約束してくれ。もっと、ちゃんと、自分を大切にすること。あと、もっと、周りを見ること。




