58.赤い晩餐編 おとり
セフィライズが再びリシテアを抱えようと手を伸ばす。それを彼女は避けるようにして止めた。
「あれは、誰かわかっていますの?」
はっきりとした声で、そして変わらない強気な視線をリシテアはセフィライズに向けた。
「おそらく、ベッケンバウアー侯爵のご家族、かと……」
スノウが向かった先がベッケンバウアー侯爵の邸宅だったこと。そこに迎えに行くようセフィライズに命じた。そしてあの化け物がベッケンバウアー侯爵の家族。リシテアは一瞬にして察し、同時にスノウは大丈夫なのかと心配になった。
「スノウは、どうしたのかしら」
「……後で、説明いたします」
話せば長くなる。スノウの事を思い出してしまい、セフィライズは一瞬顔色を曇らせた。あの大怪我で、彼女は大丈夫だろうか。しかしもうレンブラントに任せる他ない。今はリシテアの命の方が優先される。
そのセフィライズの反応に、リシテアは再び察してしまった。彼の衣服についた血液の、その理由も。
「なおさら捕まえなければなりませんわ! やりますわよ!」
リシテアが立ち上がり、ドレスの裾を掴む。裾が長い状態では走りにくいだろう。ヒールの靴を脱ぎ捨て、彼女はそれを力一杯引きちぎろうとした。
「もう! なんて頑丈なのかしら! セフィライズ、少し短くしてくれるかしら!」
「リシテア様は逃げてください、あとは私が」
「命令よ、わたくしの言う通りに動きなさい!」
「それは、聞けません」
彼女の身を危険に晒すわけにはいかない。何かあってはカイウスに見せる顔がない。リシテアに手を伸ばすと、彼女はそれを払い退けるように叩いた。
「今、一番大切な事は何かしら」
「リシテア様を安全なところへお連れすることです」
「いいえ、違いますわ。あの化け物を捕獲する事です。あなたは、あれについても調査するよう言われているのでしょう」
セフィライズはベッケンバウアー侯爵から、あの黒い液体の入った小瓶の事について聞いた事を伝える。しかしリシテアは首を振った。
「セフィライズ。わたくしは、あなたにしかできないと思っているのです。見たでしょう。あの兵士達では太刀打ちなんてできません。犠牲者が増えるだけです」
「だとしても、リシテア様をおとりにするわけにはいきません」
リシテアはセフィライズの反論に、頑固ねとため息をつく。しかし、セフィライズからしてみればリシテアが頑固なのだ。話が平行線のまま。再びリシテアを抱きかかえようと伸ばされた彼の手を、彼女は叩き落とした。
「わたくしの目をはっきり見なさい! いいですか、目の前に誰がいますか? あなたはわたくしの命令に逆らえる立場ではなくてよ」
「……ですが、カイウス様に」
「お兄様も、同じ選択を取りますわ。わかりますね」
リシテアは再びドレスを持ち、力をこめて引きちぎった。今度は破れたそれを、裾をたくし上げる為に腰回りで結び長さを調節する。
「リシテア様がおとりになるのには反対です……」
「ならわたくし一人でやります」
こうして押し問答をしても時間ばかりが過ぎていく。リシテアの強気な目を、彼は大きなため息をつきながら見つめ返した。
「では……一緒に中庭に来ていただけますか」
「ふふ、任せなさい!」
セフィライズはリシテアを連れ中庭にきた。あの時、スノウがルードリヒに抱きしめられていた噴水までリシテアを誘うと、そのふちに座ってもらう。建物の方から溢れる光と共に、多くの人の叫び声がまるで別次元のように感じるほど、周囲は静かだった。
セフィライズは予備のナイフを取り出し、左腕を切る。痛みに少しだけ顔を歪めながらその腕を押さえ、右手に付着した血液を、噴水を中心に各方面に付着させていった。
「リシテア様は絶対に動かないでください」
セフィライズはこの場所に人を誘導してくる旨を伝える。その人達をリシテアの元まで来るよう声をかけて欲しい、と頭を下げた。
「わかりましたわ」
セフィライズは再びタナトス化した人間が暴れる建物の中へ戻る。内部では既に兵士達はあらかたやられてしまい、増援の兵達が半泣きになりながら応戦していた。タナトスの腕が伸び、一人の兵士を八つ裂きにしようと振り下ろされる。
それに向かいセフィライズはナイフを投げた。黒い腕に突き刺さったそれに反応したタナトスの動きが止まる。
「中庭に誘導して!」
ナイフを投げたセフィライズの存在に気がついた兵士達に声をかける。応戦する気力の残っていない彼らは、素直に中庭へ向けて全員走り出した。
突然の兵達の移動に、タナトスは一瞬考えているかのように立ち止まる。しかし理解したのか、兵士達を追うようにタナトスもまた走り出した。
今回のタナトス化した人間は、何故かセフィライズにはあまり興味を示していない様子だった。以前は人と見れば誰彼構わず襲っていたと思っていたが、しかし。タナトスがいた周囲には兵士の死体が転がっている。転がっていると言うことは、食われていないと言うこと。
タナトスの後ろを追うようにしてセフィライズは走った。怪物の跳躍では走りにくいのであろう、その廊下の壁面に何度もぶつかっているのが見える。
兵士達が先に庭に出ると、それに気がついたリシテアが大声を上げて噴水付近へ集まるように指示を出した。もはや考える事もできなくなっている兵士達は、ただただ言われた通りに集まる。
「来るわ!」
激しく壁にぶつかりながら中庭に飛び出してきたタナトスは、一旦止まった。獲物を探すかのように見渡し、そして瞼のない眼球で見つける。リシテアの、姿を。
ギィエエエエエ!! と、雄叫びをあげたタナトスが、その場から高く飛び上がった。




