52.赤い晩餐編 悲鳴
ルードリヒは屋敷の入り口に戻り、スノウが最初に通った廊下とは違う廊下を進む。すぐ目の前に、大きな扉が現れた。
「ここは、我がベッケンバウアー家の大切なものがあるのですよ。中は真っ暗なので気をつけて入ってください。すぐ明かりをつけますね」
「わかりました」
ルードリヒがゆっくりと扉を開ける、その小さな隙間から中に入った。確かに中は真っ暗で何があるかわからない。ルードリヒが静かに扉を閉めると、外からの微かな光さえも遮断され本当に闇に包まれた。
何か、音がする。聞いたことがある音のような気がした。しかし、暗くて何も見えない。
「ルードリヒさん。明かりを、つけて頂けますか」
「はい、今つけますね。わたしも真っ暗で、慣れているとはいえ少し時間が掛かって申し訳ない」
ルードリヒが歩く音がする。それが少しずつ遠ざかり、何か金属が擦れあう音が聞こえた。これが、照明の為の魔導人工物を動かす音かと思った。しかし、どうだっただろうか。暗闇の中で思い出す、セフィライズの執務室で、彼はどう明かりを灯していただろうか。そっと、手をかざしていなかっただろうか。
「スノウさん、私は、本当にあなたに会えて、よかった。そして、もう我慢できそうにない」
その声とともに、部屋に明かりが灯った。スノウの目の前には、想定もしていないものがあった。
太い猛獣用と思われる小さな檻に閉じ込められた、黒い怪物——タナトス化した、人間の姿だ。
「ど、どうして。これは、どういう、事ですか? ルードリヒさん!」
振り返るとそこにいたルードリヒは、片手にダガーナイフを持っていた。狂気の色が灯る瞳で、満面の笑みでスノウを見ている。怖くて、扉に向かって走った。しかし押しても引いても、開かないのだ。扉を背に、ルードリヒみると静かに近づいてくる。
「腕の一本で構いません。大丈夫、すぐ再生するんでしょう?」
腕の一本、再生。それは、セフィライズの左腕を切断した時の、ことだろうか。恐怖のあまり考えられなまま、身体中が震えて足がすくむ。逃げないといけない、逃げなければ、殺される。
「きゃぁッ!」
ルードリヒが無言で振り下ろしてくるダガーナイフを、避けようと逃げた。しかしスノウの腕に浅く刺さり、鮮血が跳ぶ。その場に倒れ込むようにしたスノウに向け、ルードリヒがさらに突き刺すように振り下ろしてくる。
身をねじって避け、慌てて立ち上がるその瞬間に、太ももへと突き立てられた。
「いやっ! 痛ッ!」
深く抉るように柄を回される。鼓動が早く、太ももが焼けるように熱く痛い。
「やめて、やめてください! 何の、話ですか……再生、なんてッ……」
「足でもかまいません、腕でもいいんです。大人しく、差し出せ!」
太ももから抜かれたダガーナイフをルードリヒが振り上げる。スノウは動く足で必死に床を這いずるように逃げようとするも、そのナイフが腕へと振り下され、激痛のあまり大きな悲鳴をあげた。
日が沈む。セフィライズは夜の空気が混じった、黄昏の空を庭の椅子に座り眺めていた。つい、この前ここで、スノウと一緒に本を読んで過ごした事を思い出す。今は、そこに誰もいない。目を閉じて、その時を思い出しながら、愛しい、という感情をどう受け止めていいかわからないでいた。
子供や動物が可愛い、みたいな感情だろうかと思うも、それとは違う。シセルズに対する親愛だろうかと思うがそれでもない。
「もうよろしいのですか?」
レンブラントが静かに近づいてくる。一瞬そちらを見たが、すぐに沈んでしまった太陽に照らされた雲へ視線を戻した。
「……もう、大丈夫」
「リシテア様が、大変ご心配されていらっしゃいましたよ。あと、非常に疑っていらっしゃいました」
だろうな、とセフィライズは思った。レンブラントがどのようにうまく言ったとしても、限界がある。怪しまれるのは仕方がない事だ。
「ちょっと、セフィライズ! どこいったの!?」
邸宅の中で大声を出すのは、リシテアだ。その元気さにため息をつきながら、やや大きな声でここにおります、と返事を返した。
「もう! セフィライズは本当に庭が好きね! スノウがどこに行ったか知りませんこと?」
その言葉に、セフィライズは隣に立つレンブラントを見た。彼が目を閉じて静かに首を振る。つまり、セフィライズの事は誤魔化したが、スノウの事は何も伝えていないという意味だ。
「リシテア様、スノウは少し、所用で出ています。すぐ戻ってまいります」
「スノウが所用ですって? どこに行ったのかしら。セフィライズの用事でしょう?」
「……いえ。スノウに何か用事がございましたか。私から伝えておきましょうか」
リシテアは、うーんだとか、あーだとか、そういった言葉を言いながら気がつく。
「しまったわ。また騙されるところよ。わたくしは、スノウはどこに行ったの? と、聞いたのよ」
話を逸らそうとしたのがバレてしまった。再び困ったようにセフィライズがレンブラントへ助けを求めるも、そもそもレンブラントは目を開けていなかった。
「スノウは、ベッケンバウアー侯爵のところに行っています」
「あら、そうなの? どうしてかしら?」
「それは……」
知らない、と答えるには違和感がありすぎた。しかり、理由を説明するわけにもいかず、嘘を用意しようにも変な間を開けすぎてしまいもう使えそうにない。
口籠ったセフィライズの前で、怖い顔のリシテアが腕組みをした。
「はっきり答えなさい!」
「……食事に、誘われたらしく。それで……」
「ベッケンバウアー侯爵が何故スノウを食事に誘うのかしら。わたくしやセフィライズならまだわかりますわ」
「……」
これ以上は答えようが無い。セフィライズは眉間に皺を寄せ、あからさまに困った表情を浮かべた。




