45.カンティア宴会編 抱きしめる
心臓の痛みがまだひかない。セフィライズは悔しそうに壁を拳で叩きつけ、なんとか立ち上がった。まだ、動ける。まだ、歩ける。
「行かない、と……」
壁を伝いながら歩いた。スノウを探すように進む。
会ってちゃんと謝りたいと思った。傷つけてしまった事を。
スノウが彼の名前を呼び、隣で嬉しそうに笑う、その当たり前が今消えようとしている。
庭園に出る為の扉が開いたままになっていた。きっとここを通ったのかと思う。
暗い庭園をおぼつかない足で歩きながら、段差につまずいて倒れそうにる。セフィライズの髪に止められた布飾りが落ちた。しかしそれに気が付かず、再び立ち上がり進む。
噴水の流れる音が聞こえて立ち止まった。月明かりと建物から発せられる照明の反射に照らされた、スノウを見つけて、しかし。視界に映ったのは。
セフィライズの目の前で、ルードリヒに抱きしめられている彼女の姿だった。
一瞬、ルードリヒがセフィライズに気がついてこちらを見た。うっすらと笑みを浮かべ、頷いている。セフィライズは無言で頭を下げ、二人に背を向けて庭園を後にした。再び廊下の壁に体を預け、胸に手を当てる。
まだ痛む。でも、もうどこが痛いのかわからなかった。自嘲気味に笑いながら、呆然と庭の一部を見る。
ただ、いつも隣にいた。気がついたら自然と笑いかけられる。それがある瞬間から日常の中の一部となっていた。そこにあるのが当たり前で、何か特別と意識する事もない。
勝手に一緒にいるものだと。そばにいるものだと思い込んでいた。そんなわけないのに。
そんな当たり前は、一瞬で無くなる。
彼女にとっていい選択とはなんだろうか。それは多分、自分と一緒にいることではないのはわかりきっている。この先を生きていく彼女に、贈れるものは。なんだろうか。
彼女にとって、いい選択とは。
再び浮かぶ疑問の答えは、もう出ている。
「すみません! は、離して頂けませんか。……離してっ!」
精一杯の抵抗で、スノウはルードリヒを押し返す。彼は慌てて手を離し、わざとらしく笑った。
「すみません、気持ちが溢れてしまって。つい……」
「あ、あの。お気持ち、と、とても嬉しいの、ですが。わたしでは、その、ルードリヒさんとは釣り合わないというか」
「安心してください。身分差など私が解決して、あなたを必ず守って見せます。今すぐ答えが出ないのは承知の上です。ですので、このカンティアの教導院に在学中の間に、あなたにアプローチするつもりです。卒業までには必ず、振り向かせて見せます」
ルードリヒの顔は、背後にある建物の明かりのせいでよく見えない。スノウは起きた出来事が目まぐるしすぎて、もはや何を考え、答えていいかわからないほど混乱していた。
ただ、思うのは、セフィライズの事だけ。だから、ふと思ったのだ。ルードリヒの言葉は、果たして本当なのだろうか。
「セフィライズさんと、お話、してから……。セフィライズさんが、わたしの意見も聞かずに、決めるとは、思えなくて」
彼はいつでも尊重してくれる。決めつけたように言うときは、スノウの事を考えている時だけだ。自分が迷惑だから、仕事がやりにくいから、そんな理由でスノウを引き離すとは思えない。
「今泣いていたのは、そのセフィライズ殿に何か言われたからなのではないですか?」
ルードリヒの指摘に胸が痛んだ。ついさっき、迷惑だと言われたばかりだった。
図星だったのだろうスノウが震えるのを確認した彼は、うっすらと笑みを浮かべながらスノウの肩に手をかける。
「安心してください。私は強制するつもりはありません。明日の夜、一緒に夕食をいかがですか? 私の屋敷で、是非その時、スノウさんの回答を聞かせて頂けませんか?」
「は、はい……」
スノウは今、すぐにでも一人になりたかった。もう冷静な判断が出来ない。ルードリヒが丁寧に頭をさげ、跪くとスノウの手をとり、その甲にキスをする。怖くなって、スノウは慌てて手をひいた。
「では、失礼しますよ」
ルードリヒが去り、スノウは呆然としながら噴水の縁に座って空を眺めた。彼の瞳の色に似た二つの月が煌々と闇夜を照らしている。宴会の喧騒も、今のスノウには聞こえない。何も考えられないまま時間を浪費し、しかし戻らなければと立ち上がる。とぼとぼと歩きながら庭園を戻ると足元に赤い布が落ちていた。拾い上げたそれは、紛れもなくセフィライズの髪につけられていた布飾り。その場所から振り返ると、噴水の端が見えた。
彼に、ルードリヒに抱きしめられているところを見られたかもしれない。そう思い、口元を抑えた。
誤解されているかもしれない。でも、どう言えばいいのだろう。どう、声をかけたらいいのだろう。
「セフィライズさん……」
彼の布飾りを胸に抱き締め、スノウは再び泣いた。
帰りの馬車に、何故かセフィライズは乗っていなかった。レンブラント曰く、体調不良の為に先に帰ったとの事だった。スノウは土で汚れた布飾りを握りしめながら俯く。リシテアがしきりにどこに行っていたのか、何があったのかと聞いてくるも、何も答えることが出来なかった。
スノウは目を真っ赤に腫らしながら、ただ生気が抜けたかのように、取り繕うように笑うしか出来ない。
心がもうここにはいない。魂が死んでしまったような。目を閉じて、その闇の中で見る。
心から、想う。




