26.カンティア滞在編 睡眠
翌日、燐光の谷を出発した。リシテアが名残惜しそうに朝からお風呂に入りたがっているのをなだめながら移動する。薄暗かった場所から、明るく色のある世界に戻ると、まるで鮮やかな絵の具が飛び散っているのかと思う程に視界を染め上げた。どこまでも続く彩度の高い草原と、気持ちの良い風。どこから香っているかわからない、多彩な花の香り。スノウはそのお日様の匂いを、気持ちよく感じ何度も深呼吸をした。
「まぁ、スノウの髪の毛も輝いていて綺麗だわ」
リシテアが風に揺れる彼女のはねた柔らかな髪に手を伸ばす。自身の重たい赤毛と比較して、とても羨ましそうな表情を浮かべた。
「リシテア様も、素敵な赤毛ですよ」
「いやよ、わたくしはこの赤毛、嫌いなんです。これぞ王族、どこに行ってもそういった目で見られるのですから」
何をしても、誰といても、赤毛ですぐに身分が知られてしまうから。発言も、行動も、全て見られてしまう。そして貼り付けたかのような笑顔でご機嫌をとられる。つまらない世界だとリシテアは思う。それらの者達と比べて、セフィライズも、スノウも、見た目で人を決めつけない。それは彼らの持って生まれたものが、自身の近いせいもあると思った。そしてそれが、とてもありがたくて、とても居心地がいい。
柔らかな陽気と暖かな匂い、揺られる馬車は心地よい振動だ。だからか、スノウもほんの少し眠たくなる。外に向けていた視線を戻すと、目の前に座っているセフィライズは目を瞑っていた。
「まぁ、また寝たのかしら」
スノウはただ目を閉じているだけかなとも思ったが、リシテアが声をかけても動かない。
「昨日もあんなことがありましたし、どこか悪いのかもしれませんわね」
どこか悪い、の言葉でスノウは思い出す。彼の、胸にあった腫瘤。触れた時の感覚は、まるで樹皮を撫でている程にザラザラとしていて、熱を帯びていた。自身の掌を見た後で彼に視線を移す。本当に、目を瞑っているだけに見える。しかし、昨日のそれが怖くて、気がついたらセフィライズに手を伸ばしていた。
「セフィライズさん?」
もし、静かに寝ているのだとしたら、起こしたら悪いかと思ったけれど。恐怖が勝ってしまった。起きてほし、目を開けてほしい、声を、聞かせてほしい。
「セフィライズさん、大丈夫ですか?」
少し大きな声で問いかける。彼を何度か揺らしてみた。それでも、目を覚さない。
「起きなさいセフィライズ!」
リシテアが強い口調と力で彼を揺すった。体を壁にもたれさせていたが、反対の方へ体制を崩すと、ドサリと音を立てて狭い馬車の中で倒れる。しかしそれでも彼は目を覚さず、リシテアは息を飲んだ。
「ちょ、ちょっと! セフィライズ?」
スノウは倒れ込んだ彼に近寄り、崩れた姿勢を息がしやすいように整える。首筋に手を当て脈を確認したが、遅くもなく、早くもない。耳元で再び彼の名前を何度か呼んでみるも、しかし反応が全くない。
怖くて、怖くて、怖くて……気がついたら、彼女は首元の彼のボタンを外していた。彼の、腫瘤のせいだと、思うのだ。それ以外、考えられない。
一つ、外して。二つ、外して。鎖骨が見えるところまで、服を開いて。そして。
やはり、見間違いではないのだ。そこに、赤黒く熱を帯びたものが。彼の首元の服を持つ手が震える。しかしこれを、リシテアに見せるべきか悩んだ。彼の、下手ながらに必死に嘘をついて、隠そうとしていた姿を思い出して。ゆっくり、二つ目のボタンを留め直した。
「どうすれば良いのかしら、わたくしは。スノウ、様子はどうかしら?」
あからさまに取り乱しているリシテアがスノウの肩に触れる。
「大丈夫です。カンティアにはすぐ着くかと思いますので、そこで休ませて様子を見るのがいいかと思います。……本当に、疲れていらっしゃるのかもしれません」
彼は誰にも、知られたくないだろう。だから、それを守ってあげたいと思った。大事にしたくないと願っているのならば。
ただ、目を閉じて。静かに眠っているだけ。彼の長い髪を整えるように撫でて。
あの時、拒まなければよかったと。
スノウは自身の唇に触れて、目を閉じた。




