15.コンゴッソの夜編 安堵
レンブラントはスノウの手首の傷を手際よく癒した。軟膏のひんやりとした感触の上から、白く上質な包帯が丁寧に巻かれていく。さらに彼は、アリスアイレス王国の赤と金を織り込んだ麻色の衣を差し出した。袖を通した瞬間、布は驚くほど滑らかで、今まで身につけたどんな衣よりも肌を優しく撫でてきた。
レンブラントの話によれば、それはアリスアイレス王国に仕える一般兵の制服だという。その衣を纏うだけで、誰もが王国に仕える者、あるいはその庇護下にある者だと理解するのだ。
その説明を聞いたとき、スノウは不思議な安堵を覚えた。ただ衣を身に着けるだけで、怯える必要はもうない。奪われることを恐れなくてもいい。衣服以上のものが、彼女の心をあたたかく灯していた。
さらに赤と金で王国の文様を縁取ったフードをかぶるよう指示される。スノウの金髪は珍しい。髪色と顔を隠したまま、彼女は案内されるままに外へと踏み出した。
土煙と乾燥した街の空気。あの時。スノウが壁を抜けたその時の、世界が一瞬にして変わってしまった感覚を胸に抱く。すべてが物凄く遠い昔のようだと、スノウは太陽を眩しそうに見上げながら、ふと思うのだった。
すぐに宿屋へと案内され、最上階の角部屋へと通された。部屋の中には、木肌の荒いベッドと、使い込まれた椅子と机があるだけ。壁は漆喰で塗られているが、ところどころくすみが目につく。飾り気はなく、床板はきしみ、装飾といえば窓枠の古びたカーテンぐらいのものだった。広さこそあるが、つい先ほどまでいた空間と比べれば、庶民的で質素な一室。
二方向に設けられた窓のひとつを覗けば、太陽はすでに西へ傾き、空を橙から深い茜へと染めはじめていた。光は斜めに差し込み、部屋の木製の家具を長い影に変えていく。
「お食事をお持ち致しましょう。なにか御用がございましたら、すぐお呼びください」
レンブラントは深々と頭を下げ、部屋を後にした。再びぽつりと取り残される。
しばらく立ち尽くしたまま、ぼんやりと部屋を見回した。今日一日が夢のように思える。ずっと、悪い人に買われて働かされるのではないか、もっと恐ろしい目に遭うのではないかと、頭の中で幾度も不安を巡らせていたのだ。ずっと心は張りつめていた。
そんな時、窓から入り込む夜の気配を帯びた風が、金の髪をやさしく撫でていった。その瞬間、固く張っていた心の糸がふっと緩み、スノウはその場に座り込んでしまう。
ふっと座り込んだまま、どれほど時間が過ぎたのだろう。胸の奥に残った恐怖の余韻と、ようやく訪れた静けさに身を委ねていた、その時。コンコン、と扉を叩く音が耳に届く。
スノウははっとして顔を上げ、自分がどれほど長くそうしていたのかと我に返った。
「失礼します、お食事をお持ちしました」
木製のトレーに乗せられた食事。芳醇な香りが部屋いっぱいに広がった。反射的にスノウのお腹が鳴る。恥ずかしくなり、立ち上がりながら腹に手を重ねた。レンブラントは表情ひとつ変えずに、テーブルの上に食事を置く。
見たこともない食事だとスノウは思った。彼女のいた砂漠地帯では、雑穀が練り混じっている平たいパンや、魚か稀に肉が焼かれて出されるだけ。塩がかかっていればご馳走といった感じだ。オアシス一帯に自生しているサボテンやカラシナなども食べる。
しかし、彼女が見たこともない黄色のスープ。丸くてふかふかしてそうなパン。香草とチーズとパン粉をまぶして焼かれた鶏肉とサラダ。
「ありがとうございます。レンブラントさん」
スノウはそれにくぎ付けになりながらも、レンブラントへ先程の……と、挨拶をしたセフィライズの事を聞こうと続ける。しかしその途中で言葉が失速してしまった。
「セフィライズ様はいま、別の用向きで外しております。お伝えすることがございましたら、わたくしがお伺い致しましょう」
鋭い眼差しだった。レンブラントの言葉に、スノウは何も答えられない。
用事があったわけではないのだ。何かを伝えたいわけでもない。聞きたいことも、きっと沢山あるのだろうが言葉にできない。自分がただ川の流れに乗せられて、運ばれるだけの落ち葉のようだと思い、スノウは胸に手を当てた。
主張する言葉も、ないのだ。
「冷めてしまいますので、お早めにお召し上がりください。終わられる頃に、また参りますので」
「はい……」
レンブラントが深々と一礼し、背筋を真っ直ぐに部屋を出ていく。
今度はやっと、外の音が聞こえる。世界の音が、聞こえる。
スノウはパンを手に、一口かじる。何故だかわからないが、その瞬間涙が止めどなく流れ落ちた。さらに食べ進める。それでも、理由の無い涙は止まらなかった。
おいしい、とスノウは呟いた。




