22.燐光の谷編 女の子
本当にお湯が光っている。スノウは自然が作り出した温かな風呂に浸りながら、心からすごいと思った。世の中には、まだまだ自分の知らない世界がたくさんある。湯の温度はちょうどよく、とても気持ちがいい。青白く発光しているおかげで、湖の中に入ってしまうとお互いの裸体は見えなくなり、恥ずかしさも紛れた。
「素敵ね! こんなところがあるなんて。これをロマンティック、というのかしら」
リシテアが嬉しそうに湯を手ですくって、あたりに散らして遊んでいる。空中を舞うマナの灯火と、柔らかな湯の光が、暗闇の中の唯一の灯りのように錯覚するほどだった。まるで、空を飛んでいるようだとスノウは思う。真夜中に、雲の上に座り、星を眺めているかのような気持ちになった。
「ねぇ、スノウ。この前のお話の続きなのだけれど……」
スノウと肩が触れるぐらいの距離まできたリシテア。自身の赤髪を濡れないように上げているが、落ちた一部のそれを巻き取るようにして触る。自然な巻きの入った、珍しく美しい赤毛だ。赤の強い茶色の瞳と合わさって、彼女はとても幼さの残る美しさを放っている。本当にお姫様だと、スノウは改めて彼女を見て思った。
「わたくしの初恋の話をしましたでしょう? 今でも、という質問をしましたわよね?」
「はい、その……」
この話、聞こえていないだろうかとスノウは大岩の方をみる。リシテアは微笑みながら、人差し指を唇に当てた。
「大丈夫、小さな声で話せば聞こえませんわ。スノウ、わたくしが今でもセフィライズの事が好きだと言ったら、あなたはどういたしますの?」
「えっ! えっと、どう、とは……?」
どうすると言われても困った。どうもしないし、どうすることもできない。しかし、心に浮かんだのは、嫌だというワガママな感情だった。
どこにも、勝てる要素がないのだ。相手はアリスアイレス王国のお姫様で、美しくて、可愛らしくて、それでいて昔から、ずっとずっと昔から、彼と一緒にいるのだから。
「うふふ、安心して。わたくしはもう諦めていますわ。立場としても、彼を選ぶことは許されませんしね。白き大地の民だなんて、夫に選んだらなんと言われるか、想像に容易いですわ」
その言葉の全てから、まだ好きだ、というのが伝わった。しかし彼女の立場から考えても、それは頷ける。一国のお姫様が、滅んでしまった国の生き残りの、しかも一般人を選ぶわけにはいかないだろうと。
「その……もし、ご自身が、普通の……女の子だったら、どうですか?」
「もしそうだとしたら、出会っていませんわね」
当たり前よ、と言いたげにリシテアがスノウの顔をみる。スノウの困惑した表情に、彼女は吹き出した。
「うふふ、わかっているわ。もしも、だとしても、わたくしはあなたにお譲りしますわ。あの方の世界に色をつけるのはスノウ、あなただけよ」
首を傾げ、言葉の意味を考えているスノウ。リシテアは彼女にどう伝えていいかわからなかった。昔のセフィライズを知らない彼女には、今の彼が彼なのだろうと思う。しかし昔のセフィライズを知っているリシテアからすれば。
「わたくしが子供の頃、彼は色のない世界のような人でしたわ。生きているのか死んでいるのかすらわからないぐらい、何もない方でした。今からでは想像もつかないでしょうけど。本当に、何も、ない人でしたのよ」
その何もない彼に、色をつけたいと思った。最初に惹かれたのは、そんな理由だった。もう背が高くなっていた彼の手を引いて、世界を見せたいと思った。世の中はこんなに綺麗で、美しくて、楽しくて、生き生きとしていると。
「段々と、笑うようになって、段々と、話すようになって。そんな小さな変化が嬉しくて、それをわたくしの手で、もっともっと変わってもらいたいと思った。そうして気がついたら、好きになっていました」
昔を懐かしむリシテアの表情は、とても優しげだった。
「だから、思い切って告白しましたの。好きです、と。そうしたら彼、なんと言ったか、スノウはわかります?」
「いいえ」
「もう、酷いのよ。自分には、好きがわかりませんって、言うのだから。悔しかったわ、好きを教えることも、わたくしにはできない。でも、その意味を教えるのは、きっとあなたね」
リシテアは清々しい顔をしながらスノウを見て、そして彼女の首元の青い石を指差す。胸元のそれを撫でて、少し羨ましそうな顔で笑った。
贈り物をしたいと、セフィライズから持ちかけられた時は心から驚いた。リシテアの中で、人のために、何か、なんていうことを言うような人ではなかった。
石を選ぶ時も、リシテアは真横でセフィライズを見ていた。その表情が柔らかくて、優しく微笑んでいて、真剣に、心からスノウの事を想っている。それがわかった時、リシテアは本当の意味で、失恋したことを実感した。
まだ心のどこかで、変わっていく彼に選んでももらえる自分になりたかった。でも結局、選ばれたのは自分ではなかった。
「わたしも、セフィライズさんに選んでもらえるような、人間じゃありません」
「そうかしら。わたくしはとてもお似合いだと思いますわ。ただ、そうね。セフィライズが悪いわね。ごめんなさい、人の気持ちがわからないのよ」
リシテアの言葉に、スノウは首を振る。彼は、人の気持ちがわからないのではない。痛いほど、わかっているのだ。多分、わからないのは、セフィライズ自身の事、いや、違う、きっと、わからないのは。
「未来が、見えないのかなと、思うのです」
「未来?」
「はい。セフィライズさんを見ていると、未来を描いてないから、だから」
彼の胸の中に、何も描ける未来がないから。だからあんなにも、儚く見える。シセルズにも同じものを感じるのに、何故だか彼には、強く感じる。全てを諦めているようだと。
「じゃあ、スノウがセフィライズの、未来になるのね」
リシテアの言葉でスノウは胸に手を当てた。未来に、なれるかどうかはわからないけれど。照らしたい、とは思った。暗闇の中で、足元しか見ていないような人だから。そのずっとずっと先を、照らしてあげられたら。
もう少し、前を見て、歩きやすくなってくれたら。それでいい。




