20.燐光の谷編 彼女
「リシテア様! 風邪をひきます!」
セフィライズの後ろから強烈に甲高い声がして、全員が振り返る。そこにはかなり怒った顔をしたミジェリーが立っていた。
「どういうことですか! あなたがついていながら、リシテア様にもしものことがあったらどうしてくれるのですか!」
ずかずかという音が聞こえそうな程の歩き方でやってきた彼女は、セフィライズをひと睨みしながら言った。
「申し訳ありません」
手を前に当て、しっかりと敬礼の形を取りながらセフィライズが頭を下げる。それをみて、リシテアは湖から上がり、滴る水を気にもせずにミジェリーのところまで歩いて来た。
「ミジェリー、わたくしが自ら赴いたのよ! セフィライズは悪くないわ」
「そういう問題ではありません。お二人とも、しっかりとご自身の立場を考えて頂きたいのです。リシテア様は風邪を引く前に着替えです!」
ミジェリーに強く腕を掴まれ、リシテアが引きずられるように連れて行かれてしまった。湖の中でお湯に半身をつけたままのスノウは立ち上がり、衣服を絞るように水分を切る。服は濡れると少し重い、そして外は常春とはいえど、この谷は少しばかり冷えた。
「くしゅんッ」
濡れて急に寒くなる。体を抱きながら足元をしっかり確認し、湖から上がると、スノウの頭の上からばさりと何かが降ってきた。白くて、縁に赤い布と金糸で模様が描かれたそれが、彼のマントだと気がついて顔を上げる。
「早く着替えた方がいい」
「あ、ありがとうございます」
彼のマントを借りて、体に巻きつける。濡れてしまって、申し訳ない気持ちになった。彼の髪が長いから、あまり表情は見えない。今、どんな事を、思っているのだろうか。
「とても、綺麗ですね。セフィライズさんは……初めてですか?」
初めてではない、と分かっていて聞いた。彼が少しだけ、視線を遠くに持っていくものだから、やはり答えたくないんだろうなって、思う。
「……若い頃に、一度」
今でも十分若く見えるのだけれど、でも実際彼はとても年上だ。
「そうなんですね。お一人で、ですか?」
「いや、彼女と」
「彼女?」
「……付き合っていた、人?」
「ふぇっ!?」
まさかそんな単語が彼の口から出てくるなんて。絶対に想像できなくて、また変な声を出してしまった。心臓が飛び出るぐらい驚いたのだ。それぐらい、本当に、予想外の回答だった。聞いてしまった事を後悔する。しかし、冷静に考えれば確か二十七になっているのだから、それぐらいあってもおかしくはない。おかしくはないけれども、けれども……。
「どうした?」
「えっと、ちょっと、その……びっくりしまして……」
聞くんじゃなかった、心から、本気でスノウは後悔していた。どんな人だったのか気になる、どんなところが好きだったのか気になる、どのくらい付き合っていたのか気になる、どんなところに行って、どんな話をしたのか、とても気になる。気になって気になって、頭がおかしくなりそうだった。
「……付き合っている、と言っても、向こうが勝手にそう、言ってたようなものだから」
「そうな、ん、ですね」
ぎこちない返事をしてしまう。平静を装うのに必死で、どうしようかと彼に背を向けて頬に手を当てた。
「と、とっても、素敵な方、だったんですね!」
「……兄さんは、タイプじゃないかな」
なんだか自分の付き合っていた人を話すような口調ではなく、スノウは不思議に思った。彼を見ると、別に恥ずかしい話をしていたり、懐かしんだりしている様子もない。本当に、他人を語るような顔で、平然と思い出しているようだった。なら、何故この燐光の谷に行くと言った時に、行きたくなさそうにしていたのだろうか。どうして、答えたくないような素振りを一瞬、見せたのだろうか。
「おいくつぐらいの、時ですか?」
「十八とか。でも……」
続く言葉を、彼がわざと止めたのがわかった。こうやって言葉を止めるのは、何か心のなかで続けたくないものがあったから。そしてこの伝えられなかった言葉の先が、きっとこの燐光の谷に来たくなかった、本当の理由なのかと思った。
「これ……だから」
何が、これなのか。これとは何かを聞きたかった。でも、やはりそれ以上は聞けないまま。行ってしまう彼を、追いかけられないスノウがいた。
彼女の下りは3章終了後の外伝でやります。




