19.燐光の谷編 ひかり
燐光の谷への遠回りは順調に進んだ。カンティア側の大地は、本当に今まで見たこともないぐらい緑に溢れている。しかし谷に近づくにつれそれらは薄くなり、岩肌だらけに変わっていく。降りるように下り坂が増え、岩壁が両側に高く続くようになると、次第に崖上の巨大な木々の広がりに覆われ出した。周囲が暗くなる、そして空中には光の粒子がちらつきはじめた。
この谷に来ると、何故か気分が悪くなる。馬車に揺られ、セフィライズは肘をつきながら岩壁と周囲に広がるマナの光を見た。
この場所は、とても体に合わない。
「まぁ、素敵ねスノウ! 見て、ほら、これは触れるのかしら!」
「リシテア様、手を出したら危ないですよ」
「捕まえられないわ! どうしてかしら!」
おおはしゃぎで身を乗り出すリシテアに、スノウは慌てる。外に伸ばした手が岩壁に当たったら大ごとだ。彼女を制しながら、スノウ自身もその光をとても綺麗だと思う。輝きが馬車の中に入り込み、それが彼の頬の方へ移動する、その光の軌道を追った。
「ぁ……リシテア様」
スノウはキャーキャーと大騒ぎのリシテアに声をかける。何よ、と振り返るリシテアに、セフィライズを指差して見るように促した。
「まぁ、眠っているのかしら」
こくりこくりと首をふり、静かに眠っている彼を物珍しそうにリシテアは眺めながら口をつぐんだ。人差し指を立て、スノウに「しーッよね!」と声を出しながら片目を瞑る。
「珍しいわね。日中に寝るなんて」
「そうですね、確かに」
さっきまでつまらなさそうに外を見ていたけれども、一体どうしたのだろう。スノウは嫌な胸騒ぎがした。起こしたくなる気持ちを抑え、そっと手に触れてみる。ちゃんと、柔らかくて、ちゃんと暖かい。
つい数ヶ月前の、あの状況が彼女の脳裏に浮かぶ。今、しっかりと目の前にいるというのに、どうしてこんなにも、儚く見えるのだろうか。
馬車は谷の最深部までたどり着く。当たりは一面、岩壁と枯れた木々がぽつぽつと立っているような場所だ。木の幹もまた、その肌に詰まっているかのように淡い光が灯っている。ただ、最深部の光はなんだかとても、刺々しく感じた。スノウやセフィライズが魔術を使うときに見る色は、もっと柔らかくて暖かい色だというのに、ここのマナは、美しいのだけれど冷たい。青白い、と表現したらいいのだろうか。
「つきましたよ、セフィライズさん」
眠っている彼を、スノウは起こした。薄らと目を開けた彼は、額に手を当てる。
「すまない、寝ていたみたいで」
「いいえ、お疲れですか?」
「いや……」
セフィライズは、ここの空気が合わない、とは答えられずに黙ってしまう。なんでもないと首を振ると、馬車から降りた。今日はリシテアの望み通りに一泊していく予定らしい。他の従者達が野営の準備をしている中で、リシテアが楽しそうにマナの光を追いかけて遊んでいた。
「スノウ! あっちには湯が沸いているのよ! 一緒に見に行きませんこと?」
「はい! セフィライズさんも、ご一緒にどうですか?」
「いや、いいよ。ここで待ってる。行くなら誰か連れて行ったほうがいい」
「ダメよ、あなたも来るのよ!」
遠くでリシテアは手を振りながら、スノウとセフィライズの会話を聞いて怒っている。走って戻ってきた彼女が、無理矢理に彼の手を引いて連れていくものだから、慌ててスノウもその後を追った。
少し進むと、蒸気が温度差で冷やされて独特な湿気が広がっていた。前方がほわっと明るく、黒く見える大岩を避けると、目の前には青白く輝く小さな湖がある。そこから絶え間なく湯気が上がっていた。
「まぁ! スノウ行きましょう! 触ってみたいわ!」
セフィライズの腕を掴んでいたリシテアは、すぐその手を離してスノウの手を握る。勢いよくスノウを引っ張って、その湖まで走って行ってしまった。セフィライズも慌てて追う。
「ほら! 温かいわ! 本当にお湯じゃない!」
リシテアが少し段差のあるところから嬉しそうに手を伸ばす。必死に光るお湯をすくいあげ、手についたそれの香りを嗅いだりしていた。
「お、落ちますよ。リシテア様」
「大丈夫よ! ほらスノウもこっちにいらっしゃい」
スノウはリシテアに促され、隣に座る。水がほの明るく光るという現象と、周囲に浮遊する青白いマナの輝きは、とても幻想的に見えた。まるで別の世界に来たような感覚。素敵だなと、目の前を浮遊する灯火を掴もうと手を伸ばす。握るとそれは消えてなくなってしまった。その儚さを、一瞬彼に重ねてしまう。
その刹那、リシテアが腕をついていた場所が崩れる。体制を崩した彼女に引っ張られるように、スノウはすぐ目の前のお湯の中に二人して落ちてしまった。
バシャン! と大きな音を立てて、二人が湖の中に倒れ込むものだから、セフィライズも慌てて駆け寄る。二人は浅いお湯に上半身から入ってずぶ濡れになっていた。
「わぁ! すごいわ! 本当に温かいじゃないの! 素敵じゃない! あとでゆっくり一緒に入りませんこと?」
「そ、そうですね。お怪我はありませんか?」
スノウは大笑いしながら楽しそうにお湯を撫でているリシテアを心配する。アリスアイレス王国の第一王女なのだから、もしものことがあってはと。




