5.出発準備編 作法
スノウは朝、いつも通り練習場を覗いてからセフィライズの執務室に行くつもりだった。最近の彼は訓練に傾倒しているので、執務室にいないことが多い。
そのつもりで部屋を出ると、ちょうどそこに伝達係の従者が一人こちらへ向かってきた。誰かに何かを伝えに、わざわざ来たのだろうと頭を下げるも、その従者は彼女の目の前で止まる。
「あの……」
「リシテア様がお呼びです」
カイウスの呪いを解いた時以降は、セフィライズのそばに立っているだけという状態でしか会ったことがない。アリスアイレス王国の第一王女にしてカイウスの妹。
「わたし、ひとりですか?」
「はい、すぐにお越しください」
なんの用事か全く検討がつかない。本当に自分一人で大丈夫かと、首を傾げつつ頷いた。セフィライズに一言声をかけるべきか悩むも、少し寄り道をする程度の用事だろうと思い、その足でリシテアの元へと向かう。
リシテアの部屋の前で、スノウは深呼吸をした。いつもは彼がいて、その隣で立っているだけ。二人っきりという初めての状況に、何を言われるのか、何をされるのか想像がつかない。
「失礼致します」
スノウは扉をあけ、頭を下げた。
「あら! 意外と早かったのね!」
そこは今まで見たアリスアイレス城のどの部屋よりも豪華で広い空間だった。リシテアの周りには五人程女性の従者が立っている。一人、いかにも厳しい顔をした中年の女性が、まっすぐに背筋を張り、誰よりもしっかりと姿で立っていた。
「早くこちらへいらして」
スノウは入口で固まっていると、リシテアには催促され、ゆっくり彼女の前に立った。未だあまりしない為に不慣れな敬礼をする。
「おはようございます、リシテア様」
「うん、おはよう。実はお兄様からあなたの事を聞いたの。面白いからわたくしにやらせてってお願いしたのよ!」
あなたの事を聞いた、何をだろうかとスノウは首を傾げる。何かやるべきことがあっただろうか、重大な見落としがあるのだろうか。段々と不安になって、胸に手を当てる。しかし、何をですか、と聞いても怒られないだろうかとそちらも気になる。
「では早速紹介するわね! この人はわたくしとお兄様の先生、ミジェリーよ。今日からあなたの指導をしてもらうわ!」
怖い顔をして髪を綺麗にまとめている女性が前に出る。何の先生なのか、どういう事になっているのか、スノウは全く理解できないまま、よろしくお願い致しますと頭を下げた。
「まず立ち姿からして減点ですね。残り二ヶ月程しかありませんので、厳しく行かせていただきます」
スノウは何が残り二ヶ月なのか、何をするのか本当にわからない。どうしよう、ここで何の話ですかと聞いた方がいいのかと慌てた。しかしもうだいぶ昔に聞く時期を逃してしまったようにも思う。
「スノウはヒールは履いたことあるかしら? 身長はわたくしと近そうですし、取り急ぎわたくしの服と靴を使うといいわ。後日仕立て屋を呼ばせますわね。えっと、準備するのは正装だけとは聞いているのだけれど……」
捲し立てるようにスノウの目の前まできたリシテアが、彼女を物色するように眺め、楽しそうにしている。そしてイタズラをしようとする子供のように、満面の笑みを見せた。
「わたくしは、とっても面白いと思うの。だからドレスも作りましょう?」
「は、はい……」
何を、何のために、どうして。喉元まで出てきた言葉を飲み込む。もう完全に、聞けるような状態ではない。リシテアの従者が服と靴を持ってくる。本当に簡単なドレスと、先の細いヒールだ。
「ほら、ここにはわたくし達しかいませんもの、お着替えになって」
「リシテア様、奥の部屋を使います。はしたない」
すかさずミジェリーが厳しい声を出すので、リシテアはつまらなさそうに反感の言葉を吐いた。それにも厳しい目を向けられて、逃げるようにスノウの手を掴む。
「ではわたくしの奥の部屋へご案内しますわ」
「あ、あの! リシテア様……わたし、セフィライズさんにはまだ、何も言わずに来てしまっていて」
「あらそうなの? ではわたくしからセフィライズに伝えておくから安心して。今日から毎日、わたくしのところに来なさい」
一体どうなっているのか全くついていけないまま、スノウの手を無邪気に引っ張るリシテアに連れられ、奥の部屋へと入った。贅沢な空間に椅子と机しかない。天井からは豪華に飾られた照明のための魔導人工物が設置されている。人目が避けられるようなパーテーションが部屋の端にあり、そこには化粧台や何やら細かな道具が並んでいた。
「あなたとセフィライズと一緒に出かけられるなんて、わたくしはとても嬉しいわ! 実はね、スノウ。ここだけの秘密なのだけれど……」
後からついてきた女性従者達が仕切りの中の場所に服と靴を持ち込む。そこにリシテアはスノウを押し込むようにしながら、耳元で囁いた。
「セフィライズはわたくしの初恋なのよ」
スノウは驚いてリシテアをみると、幼いながらも凛とした表情で楽しそうに笑っていた。




