45.謀略の黒化編 邸宅
「カイウス様、話なら別に、移動しなくても……」
執務室から離れるまで、セフィライズはカイウスに黙って手を引かれていた。声をかけると立ち止まったカイウスが面白いと腹を抱えて喉を鳴らしている。
「どうか、されましたか?」
「いや、正解だったなと思っただけだ」
「は……?」
笑っているカイウスに、セフィライズは意味が分からないといった目を向けた。先ほどの話は、カイウスの幼いとは違う、精神が未熟だというところだけ聞こえて中に入った。いったい何の話をしていたのか、彼には見当もついていない。
「本当に、私からみたらどちらが年下かわからない」
「カイウス様です」
「事実の話ではないよ」
冷静な返しに再びカイウスは笑った。
最初に、スノウの話を聞いた時。カイウスは思った。もしかしたら、彼女ならと。
誰かの話をするときに、表情一つ変えず淡々と報告するか不快そうな顔しかしないセフィライズが、何かとても、今まで見せたこともない慈しみにも似た雰囲気だったのだ。本人に自覚があったかは分からないが。
そして今日、スノウとの会話を聞いて確信した。彼女なら、この難解な人間のそばにいて、その絡まった糸をほどくように、寄り添ってくれるだろうと。
慈愛と、優しさが。傷ついた心を癒していくと。
「セフィライズ、スノウとはどうだ。一緒に働き始めたのだろ?」
「どう、と言われましても。まだ数日です」
「そうか、うまくやれているように感じたが、そうは思わなかったか?」
「うまく……」
考えた。うまくとは、なんだろうかと。
彼女が執務室にいるようになったのは、本当にたった数日前からだ。今まで一人だった空間に、毎朝おはようございますと、柔らかな声が届く。すぐそばに人がいる事が、不快になるかと思っていたが自然に馴染んでいたのは事実だった。だが、それをうまく、と言うのかはわからなかった。
「……スノウがいると、少し……あたたかくなりました」
室内が、雰囲気が、心が。
セフィライズは適切な表現かわからないまま答えた。違いを、感じるのはわかるが、それが具体的に何かがわからない。
「なるほど。アリスアイレス王国の氷狼の絶対零度の氷も、ついに解ける日が近いか」
またも笑い出したカイウスに、セフィライズはよくわからないといった表情を向ける。
カイウスは、回答をごまかさない、素直に答えるあたりが幼いのだろうと再び思った。
「では、もう戻る」
「何か、ご用事があったのではないのですか?」
「ああ、もう済んだ」
セフィライズの解せないといった表情を理解しながらも、カイウスはその場から立ち去った。振り返らなかったが、おそらくセフィライズは執務室に戻ったのだろう。扉が閉まる音が後から聞こえてきた。
カイウスがしばらく歩き、廊下の角を曲がったところに、壁を背にしてシセルズが立っていた。
「どうでした?」
シセルズはカイウスが何をしてきたのか全て理解した口調だった。
「ああ、珍しいものを見た気がする」
「でしょう?」
シセルズはにんまりと笑みを浮かべる。
スノウなら、きっと、セフィライズを変えてくれる。何かが決定的に欠けている弟を、普通の人間にしてくれるはずだ。そう信じていたからこそ、その小さな変化をカイウスも感じた事を嬉しく思った。
「嬉しそうだな、シセルズ」
「ええ、嬉しいですよ。弟に大切な人ができるかもしれませんからね」
「なるほど。そうなるとシセルズは寂しくなるのではないか」
「はは、子離れできてないですかね。そんなに」
「私から見ると、だいぶと出来ていなさそうだな」
シセルズは不敵に笑う。胸元に手をあて、息を吸い、そして自身の左目尻の印に触れた。
「まぁ、無敵の兄ちゃんやってますから」
なんだかよくわからないまま、セフィライズは執務室に戻る。ちょうどカイウスへだしたお茶を片付けているスノウがいた。
「資料は、いつものところに置かせて頂きました」
そう言って給湯室へ下がっていく彼女に、さっきは何の話をしていたのか聞きそうになった。しかし聞けなかった。いつもなら平然と聞けたはずなのに、どうしてだか今日は気が乗らない。こんな気分は初めてだと、セフィライズは首を傾げる。
「ツァーダ様の邸宅には、何時ごろ行かれますか?」
そういえば今日が約束の日だったと、スノウから声をかけられてセフィライズは思い出した。
「一時過ぎかな、兄さんが迎えにくるから。二人で行こうと思ってる」
「わたしも、同行します」
スノウのまるで決定事項かのような言い方にセフィライズは苦笑した。この話し方をする時は、大体何を言っても無駄な事が多い。今回は、危険もないだろうと判断し、これを了承した。
その時間が来るまでの間、事務作業に取り掛かる。そもそも彼に割り振られる事務作業とはなんだろうかと、スノウは不思議に思っていた。大体が報告書や伝達事項の確認、遠征での出来事の把握と文書の作成。カイウスに同行した際に見聞きしたことをまとめたり、他のまとめられた資料と照らし合わせて議事録を作ったりしていた。
事務仕事だけではなく、彼はよく出かける。主にカイウスと同行して来賓の席に立っているだけのことが多いようだ。スノウ自身はついていくことがほとんどないので、彼が執務室を出たら何をしているかまで、詳細は知らなかった。
そういえば、彼の字はとても細かいとスノウは思う。癖もなく、お手本のように綺麗とまではいかないが整った文字。男性は、多少癖字で読みにくい人が多い印象だっただけに、またなんだか彼の事を知れた気がして嬉しくなった。
「あ、セフィライズさん。わたし、今日お昼を作ったんですよ」
昼近くになり、時計を見ながらスノウは言った。カバンの中から持ってきた油紙に包まれたパンを取り出して見せる。ナイフで切り込みをいれ、ジャガイモをペースト状にし平たく焼いたもの、先のとがった葉物野菜、塩漬け鶏肉のスライスが挟まっている。しかしセフィライズはちらりとも彼女を見ない。
「よかったら、一つ食べてください」
彼の机の真ん中にわざとらしく置いて、セフィライズはやっと気がついたように顔をあげた。
「……昼は食べないようにしてるから」
「今日は、食べてください」
強い声に、セフィライズは額に手を当ててため息をつく。この話し方も、断っても折れない。いつまでも声をかけてくる話し方だ。
「スノウ……悪いけど……」
「いつも食べてないのが心配なんです。今日は食べてください」
またため息をついた。今まで一人きりでいる空間に、突然彼女がいるようになった。たまに話しかけられたり、存在を認識したりすると、まだ妙な違和感がある。邪魔だ、とは思っていないのだけれども、慣れない。
「わかった」
「ぜひどうぞ」
彼女の作ったパンを手に取り、油紙を剥がす。一口齧って、セフィライズは首をかしげた。
「スノウ……何かジャガイモに混ぜたかな」
「はい。香辛料です!」
だからかと、思った。妙に辛いというか、しかし苦いというか。スノウ自身はそれを気にも留めないように食べている。
できるだけゆっくり、少ない量を口に入れる。一度食べるとお腹いっぱいまで食べたくなるが、食べてしまうと眠くなる。
扉を叩く音が聞こえ、スノウが開けに行く。開いた扉の隙間から顔を覗かせたのはシセルズだった。
「おつかれ! あれ、まだ昼飯? お前が食べるとか珍しいな」
まだ半分以上残したパンを口元に持っていくセフィライズの姿を見て驚く。視線を移すとスノウが座っていたであろう椅子に、彼女の食べかけの同じものが置いてあるのが見えた。その瞬間、シセルズはまた悪戯心に火がつく。
「なになに? もしかして」
「兄さん、もう出ようか。準備はできてるから」
シセルズがからかおうとしているのを察知して、話を遮るように立ち上がる。机の下に置いておいた革製品のトランクを取り出した。これを持って、本人に直接聞くつもりだ。
「残りは後で頂くよ」
感謝の言葉を伝えつつ、トランクをシセルズに渡し、スノウの同行を伝える。その話を聞いて、シセルズはまた押し切られたのかと思って笑いながら見た。もはや、少し慣れた表情のセフィライズが涼しげにそれを受け流す。
「じゃー、行きますか!」
ツァーダの邸宅は、城下町とは違う貴族街にある。スノウはまだ、足を踏み入れたことがない場所という高揚感にも似た不安が胸をよぎった。
城下町とは全く違う、綺麗に整地された区画。雪は丁寧に除雪され、街路樹が等間隔に並ぶ。光を灯す魔導人工物の街灯も、城下町に比べれば多い。そして何よりも、それぞれの建物が一つずつ大きく、庭が広く、いかにもな高級感を漂わせているのだ。
見たこともない景色に、スノウは前を歩く二人の後ろをついていきながら、落ち着きがなかった。
「約束取りつけた時、すっげぇ嫌そうだっただろ? よく断られなかったな」
「カイウス様の目の前で申し出たから」
「なるほど、それは断れねぇわ」
シセルズは喉の奥を鳴らしがなら笑う。振り返るといまだに目を輝かせながら、辺りを見渡しているスノウがいた。
「お前、どうよスノウちゃんとは?」
「どうって?」
「仲良くできてるんだろ?」
「あぁ、うん……」
セフィライズはなんと答えていいか少し悩んでいる様子だった。朝方に執務室を訪問したカイウスと会話済みであるシセルズは、またも弟の小さな変化を見た気になった、
もう、わかっている。シセルズだけではない、カイウスも気が付くぐらい。何かが少しずつ、変わろうとしている事に。それが、シセルズにとってはとても嬉しい事だった。




