1.涙雨と救出編 《世界の中心》
「セフィライズ……」
名を呼ばれ、セフィライズはぐったりとベッドに横たわる赤髪の王子――カイウスのそばへ、静かに膝をついた。
彼は、色を持たぬ印象の青年だった。
透き通る銀の髪、ガラスのような瞳、雪のように白い肌。その身にまとう高位軍服の深い紺と深紅に金糸のエンブレムが浮いている程に。
セフィライズは苦悶の表情を浮かべながら、親しい友でもあるアリスアイレス王国の第一王子の手に、自らの白い指を重ねた。
まだ若い王子は謎の奇病であるフレスヴェルグの病に侵されている。健やかだった頃の面影は無い。骨が浮き、頬がこけ、指先は黒く変色し硬くなってしまっている。王族の特徴である艶やかな赤毛も、同じ赤の瞳も――まるで死体から流れ出てしまった血液のように黒ずんで見えた。
「《世界の中心》を、手に入れることはできないだろうか」
王子の言う《世界の中心》は、かつて白き大地の民の王が手にしたという伝説の秘宝である。あらゆる富、知恵、幸福を呼び、無限のマナを吐き出すとされている。
王子がこの質問をしたのは、セフィライズがその白き大地の民の生き残りだからだ。今まで幾度か問われた事はあったがしかし、ここまではっきりとした言葉で伝えられたのは、セフィライズにとっては初めての事。
王子は虚ろな瞳のまま、天蓋を仰ぎながら続けた。
「もうこの世界は長くない。世界樹がないままでは、近いうちにマナを使い切ってしまう……」
セフィライズはゆっくりとその特徴的なガラスのように透き通った銀の瞳を閉じる。同じ銀の肩下まで届く繊細な髪が揺れた。
マナとは、命の源である。しかし、そのマナを吐き出す世界樹が枯れて無くなり幾星霜。世界に残ったマナは段々と減っていき、作物は育たず、天候は荒れ……世界は、ゆっくりと死に向かっている。
王子は憂いているのだ。この世界を。
だからこそ求めている。世界樹の代わりとなり得る、無限のマナを生み出す秘宝、《世界の中心》を。
「カイウス様……」
セフィライズは王子からの問いを全て吞み下すように息を飲んだ。
「兄からカイウス様の病を消す事ができるかもしれない治癒術の使い手がいる話を聞きました。その者を、これから迎えに行こうと思っています」
セフィライズの九歳年上の兄、シセルズ。彼もまたカイウス王子の身を案じて、その病を癒す術を模索していた。それは、魔術を得意とし、またその神を信仰する白き大地の民であるこの兄弟も、唯一治癒術だけは使えないからだ。
今の世界に治癒術を使える者は少ない。しかしシセルズが見つけたその治癒術師がカイウス王子の病を治せるという確約があるわけではない。王子のフレスヴェルグの病は傷や怪我ではない、はっきりとわかる病気でもない。何が原因なのかわからないからだ。だが、もうあらゆる手は打った。
「セフィライズ、私は……この病も、この世界のマナの喪失によるものなのではないかと……思っている」
カイウスは自身の指先まで黒く染まった手を持ち上げ見つめた。
「だから、頼む」
「はい……」
セフィライズはカイウスからその特徴的な月のように美しい銀の瞳を逸らしながら、なんとか声を絞り出した。頼む、この言葉は治癒術師の事ではない。《世界の中心》について、言われたのだとはっきり理解できた。
本当は、知っている。《世界の中心》について。
知っていて言う事ができないでいる。
セフィライズは唇の端を噛んだ。
王子も気が付いているのだろう。白き大地の民の生き残りである彼らが、何かを隠している事を。
しかしセフィライズはいつも、自身を責める表情を浮かべるしかできずにいた。
セフィライズはカイウスに深く敬礼をし、その部屋を後にした。執務室に戻り、アリスアイレス王国の制服の首元へと手を伸ばす。厚手の生成り色な布地、アリスアイレスの色である赤と国の紋章。軍服を脱ぎ、椅子の背へとかけた。スタンドカラーのシャツのボタンをすべて外し脱ぐと、一般庶民が着るのと同じ軽装を身に纏う。黒い襟の立った長袖の服と麻色のパンツ。小さめのポーチを腰ベルトにつける。念のために数個の魔鉱石と幾らかの路銀を入れた。
セフィライズは最後に、靴の底に仕込ませたナイフを慣れた手つきで取出し、自身の長い銀髪を切り落とした。それを丁寧にデスクの上に置く。
「我ら、世界を創造せし魔術の神イシズに祈りを捧げ、不可知の漆黒へと転換させよ。今この時、我こそが世界の中心なり」
短くなった髪に触れながら、セフィライズは丁寧に魔術を紡いだ。するとそれは黒に染まり、銀の瞳も同じ色へと変化する。
「お、もう行くのか?」
ちょうど執務室の扉を開け入ってきたのはセフィライズの兄、シセルズだ。同じ白き大地の民であるが、その特徴である銀髪と銀の瞳は葡萄茶色に変えていた。それは、白き大地の民がとても貴重な存在だからだ。セフィライズとよく似た顔立ちの彼だが、左目尻には、ほくろと八の字の半分に崩したような刻印があった。
シセルズは普段から銀髪の弟の黒髪を珍しそうに見上げた。髪も目も、そして服も黒だと、白き大地の民の特徴である肌の色白さが際立たないだろうかと思った。
「どうした?」
シセルズはどこか思いつめた表情の弟が気になった。
「《世界の中心》を、手に入れられないか、と……」
誰から、という言葉はなかったが、シセルズはすぐに理解した。そしてセフィライズがどんな気持ちになったのかも。
シセルズは自身の手をゆっくりと上げ、左目尻の刻印に触れた。弟であるセフィライズの痛みが、伝わったような気がしたからだ。
シセルズとは違いセフィライズはいつも人と距離を置いている。わざとなのか無意識なのかは分からない。話しかけられると、どう答えていいか迷っているように見える。いつもそれは、はっきりと表情に出ていて、そしてとても辛そうに感じた。
しかしそれは、弟を知らない他人から見れば不機嫌そうで、近寄りがたくて、壁があるように取られてしまう。
白き大地の民としての特徴的な銀髪と銀の目、白い肌はこの世界では異質だ。そしてその不愛想さはきっと、冷たい人間だと誤解されるものになっているだろう。
「なぁ、セフィ。お前さぁ、この世界をどう思う?」
セフィライズは目を閉じると、心臓に自身の右手を添えた。
いつも見る表情だと、シセルズは思う。
「どうも、しようがない」