第八十ニ話 狂信さえ駆逐する魔魅の誘い
僕の右腕になり代わった銀槍を振るう。
上腕から先は肘もなく、僕に合わせてか槍の長さは二メートル弱。
動くのは肩関節のみと、これでは薙ぐか突進するかが良いところだ。
「カイト、私も行くわ。貴方の覚悟をともに背負いたいの」
「ああ、わかった。一緒にアリーを止めよう」
僕はリシィを抱え、今も『動け、動け』と喚くアリーを横目に床を蹴った。
鏡面の柱沿いの跳躍は、低重力が負担もなく僕たちを天井近くまで押し上げる。
下を見ると高さは百メートルに迫るだろうか、落ちたらただじゃすまない。
「アヒッ!? 消え……どこに行っタッ!?」
アリーは酷く慌てて動揺し、流石にもう演技とは思えない。
鏡面が僕のことをずっと彼女にも見せていたんだろうけど、人の意識は頭上にまで及ばない。そこは自ら意識して見ようとしない限りは、決して気が付かない死角。
見つけられるとしたら、それこそセンサー類が搭載された墓守くらいだ。
「出て来イッ!! アリーに何かしたラ、マムが絶対にオマエを殺スッ!!」
僕は柱を蹴り、滞空したまま天井に沿って移動を始めた。
柱と柱の間を跳び、天井を這うように進む様は我ながら器用だ。
低重力場から出ると若干落ちるけど、蹴るたびに高度を維持する。
「リシィ、しっかり捕まって。直上から強襲する!」
「ええ、決して離さないんだから!」
間もなく牛女神の直上、アリーは慌てふためくだけで気が付いた様子はない。
だけどもう油断はしない、当然彼女は気が付いているものとして挑む。
やがて柱は途切れ、僕は通常重力場で落下する前に天井を蹴った。
真上までは行けなかったけど、それでも充分に届く斜め上からの強襲だ。
「リシィ、棺を!」
「金光よ矢となり穿て!」
僕の腕の中でリシィは黒杖を振るった。
光矢は牛女神を襲い、雨と降る金光は四つの棺を穿つ。
「アアアアアアァァァァッ! マムが、マムがアァァァァッ!! 」
「アリーッ!! それはマムじゃない!! 君のマムがそんな冷たい鋼のはずがない!! もっと、もっと、暖かいはずだっ!!」
落下しながら、僕はどうにもならない感傷をアリーにぶつけた。
だけど、一体何がそうさせたのか、牛女神の両腕が少女を護ろうと伸びる。
あるはずがない、アリーを縛るだけの母の虚像に心があるはずはない!
穿つのは一人の少女の心。今、解放してみせる!
「「届けぇっ!! 【銀恢の槍皇】!!」」
不意に僕たちを仰いだ牛女神の視線と、一筋の銀光が交差する。
銀槍は、“肉”を纏う人と見紛うばかりの女性体の頭部を貫き、勢いのままに牛体の背まで削り、穂先で床を割りながらようやく僕たちを停止させた。
体に痛みが走る。骨は折れないまでも、この衝撃は堪え難い。
「痛っ……」
「カイト、大丈夫!?」
「大丈夫……だ」
本当は大丈夫じゃないかな……軋む骨が肉を刺しているようだ……。
「アアァァァァッ!! マムがアァァッ!! ワアアアアアアァァァァァァァァッ!!」
アリーは僕たちの眼前で我を失って泣き叫んだ。
妄執に囚われた少女は、虚像を失ってもまだ囚われたままだ。
後はもう、委ねるしかない。
そして、アリーの背後から、一人の男が彼女を優しく抱き締めた。
「アリー、それはアリシアじゃナイヨ? ユーのマムはもっと、ベリーベリーグレイトフルなバディでゴザル」
「ウウゥゥゥゥッ……ニック……」
ニコラス ミラー、彼は認識阻害で姿を隠し、僕たちにずっとついて来ていた。
アリーを赤ん坊の頃から知る、彼女にとってはこの世界で唯一の家族と言っても良い存在。
情に訴えかけることで、偽神の手からアリーを取り戻す作戦は、彼が自分から申し出て来たものだ。
防護フィールドの解除を待たせていたら、最後になってしまったな。
僕は結局、可能性のいくつかを束ねたに過ぎない。
「ウウウウッ! はなセッ! 裏切り者ォッ!!」
「絶対に離さないでゴザル! 大切なものは自分の身を挺してでも守る、それが拙者がジャパンカルチャーで学んだことでゴザル!」
身長百九十センチに迫る大男と小柄な少女では、振り解こうにもどうにもならないだろう。ただ逃れようともがき、だけど絶対に離してはくれない。
ミラーの太い腕に抱えられてあまりにも暴れるから、アリーの細い金髪と姫ロリルックはグシャグシャの酷い有様になっている。
「はなセッ! はなセェッ! はなセェェェェッ!!
「ダメでゴザル! ダメでゴザルッ! ダメでゴザルーーッ!!」
「マム、助けテェェェェッ!!」
ミラーの『ゴザル』のせいで段々茶番に見えてきた。
アリーが助けを求める牛女神は、もうその呼びかけに応える様子はない。
核と音響兵器を破壊するために頭部を狙ったから、棺の神力が満タンでももう動くことはないだろう。その棺も、光矢によって穴だらけになっている。
棺に眠る遺骸には申しわけないことをした、回収隊にしっかり埋葬してもらえるよう伝えないとな……。
「カイトさん! これ、持って来ましたですです!」
テュルケを先頭に皆も集まって来た。
荷電粒子砲のせいで服が焦げたりしているけど、体には目立った外傷もなくひとまずは無事な様子だ。本当に良かった。
「ありがとう、テュルケ」
「えへへ~♪」
テュルケから受け取ったのは、鋼の容れ物に入った“例のアレ”。
僕的にはあまり使いたくなかったけど、ミラーでどうしようもないのなら、もうアケノさんから受け取ったこれに懸けるしかない。
封をされた蓋を開けると、中には色鮮やかな装丁の薄い本が入っている。
「アリー、これをあげる。結構有名らしいんだけど、知っているかい?」
「はあ? オマエからもらうもの……なん……テ……」
僕が持つものをチラリと見たアリーの目の色が変わった。
その表情は驚愕と言うより、突然意中の相手から告白された乙女の様だ。
「な……なっ……なんっ、これっ、ウソッ……幻の同人作家、“A☆KE☆NO”様の見たこともない新刊!? 何でこんなものガッ!?」
……
…………
………………
おうふっ、やけにアケノさんが自信満々だと思ったら、そう言うことか……。
この薄い本は、アケノさんが徹夜で描いたと言う同人誌だ。
それもボーイズラブ、アリーは未成年なので当然全年齢対象純愛モノ。
だけど、モデルにされたのはよりによって僕とツルギさんで……あの人は本当に何を考えているんだ……。
アリーはミラーに捕まったまま、僕と本の間で視線を行き来させている。
何か段々表情が穏やかになっているけど……まさか、これ効果ある……?
「あれ……アリー、今までなにヲ……?」
「オウッ! 元のアリーに戻ったんでゴザルナ!」
「ニ、ニック、やめテ! 髭、髭が痛イッ!!」
何てことだ……最後の一押しになるかも知れないとは思っていたけど、本当に致命打になるとは流石に確信まではしていなかった。
少女は、大男の無精髭でジョリジョリされて迷惑そうだけど、どこか嬉しそうに……いや、これ以上なく迷惑そうだ。
「ほら、アリー。これはアケノさん本人が君にって」
「え、A☆KE☆NO様もこのワールドに来てるノ……?」
「う、うん、誰よりも元気に暮らしているんじゃないかな……」
アリーは恐れ多いものにでも触れるように、震えながら同人誌を受け取った。
それは果たして、狂信する神に比類するほどのものか……いや祈っている、比類するどころか上回るんだ。意味がわからないけど、アケノさん凄い。
そして、アリーはひとしきり同人誌に祈りを捧げると、もう決して離さないと言うように胸に抱え、僕を見た。
「カイト クサカ、迷惑をかけたワ。我に返ってみると、どうしてこんなガラクタをマムと思ってたのカ……全然これっぽっちも似てないワ」
「ハハハ、アリシアはベリーベリーダイナマイトなバディで、もっとこう……オウ、この墓守も意外とワンダフルなバディでゴザルナ……」
「ニック……?」
「オウッ!? ソーリーでゴザル!! ベリーベリーご無沙汰で……」
――バチーンッ!!
「アウチッ!? そりゃないでゴザルッ、アリーッ!?」
凄い、アリーは跳躍からのアクロバティック回転平手打ちで、ミラーを引っ叩いた……。
古いつき合いだからだろうか……この二人は良い芸人コンビになるんじゃ……。
「気が抜けるわね……こんなにあっさりと人は変わるものなの……?」
「そうだね、“三位一体の偽神”は因果を操り、衝動までを増幅する。人の欲とは時にどうしようもないものだ、そこを突かれたら聖人も悪をなすかも知れない」
「心まで自分の思うようにならないなんて、本当にどうしようもないわ……」
「“三位一体の偽神”……恐ろしい存在ですね。カイトさんは、何故その者に抗うことが出来るのでしょうか?」
「うーん? その辺りに僕がこの世界に来た秘密がありそうだけど、わからない」
「くふふ、主様は主様だから、我はそれだけで充分だ」
「ですです! カイトさんで良かったですですっ!」
「ありがとう」
だけど、本当に良かった。
アリーが正気を取り戻さなかった場合は、眠らせて幽閉するまで考えていたから、それは死んでしまうよりも残酷な結末になっていたかも知れない。
MVPはアケノさんになるんだろうか……不本意だけど、帰ったらお礼はしよう。
……そして、束の間の油断。
それは今まで何度繰り返し、その度に何を失っただろうか。
撒かれた種は今まさに芽吹き、開いた花の先は狂刃を形作る。
狙われるのはいつだって、僕じゃない。
狂い咲く青光の刃がリシィの首を狙った。