第五十七話 こんな平穏がいつまでも続けば良い
◇◇◇
野営地で二日の休息を取り、今は三日目の昼。
「んふーっ!」
ノウェムの喜色を表した声が背後から聞こえるわ……。
彼女はあれからカイトにべったりで、今も彼の腰に纏わりついているの。
「ノウェム、流石に階段を上る時はきついんだけど……」
「我は主様を支えているのだ。何なら“飛翔”させることも可能ぞ!」
「いや、後ろから背嚢を押してくれるだけで構わないよ?」
私たちは本来の目的地である“秘蹟抱く聖忌教会”に向かっていて、第三界層の中心にある尖塔の中にいる。もうどのくらい階段を上り続けているのかしら……下は絶対に見たくないわ……。
「嫌だ! 主様は我を『家族』と言ってくれた、もう置き去りにされとうない! このままが良い!」
「置いて行かないよ。仮に置いて行こうとしても、ノウェムを振り切れるとは……」
「このままが良い! このままが良い! 主様の傍にずっといる!」
「良い加減にして!!」
ノウェムのわがままに思わず声を張り上げてしまったわ……。
だって、竜角のみならず彼まで奪おうとするのなら、私は……私は……カイトの提案だからと受け入れてしまって、今は後悔しているの。
カイトは誰にでも優しいから、ただ同情心からだと思っていたのに……。
それなのに……それなのに……カイトったら、女の子にくっつかれて嬉しそうにデレデレして……はいないわね。
「リ、リシィ、喧嘩はダメだよ。ノウェムも寂しかっただけなんだよな」
「うん! リシィお姉ちゃんっ、ノウェム、家族が出来て嬉しい!」
「やめて! 演技なのはわかっているんだから! カイトも甘やかさないで!」
カイトが驚いて可愛く装ったノウェムを見ている。
私も驚いているわ、彼女は本当に嬉しそうなんだもの。
もう何か力が抜けてしまうわね……。
「ノウェムさん、私のことも『お姉ちゃん』って呼んで良いんですよ~?」
「テュルケお姉ちゃん?」
「はいですです!」
「テュ~ル~~ケ~~~~?」
「ひゃいっ! ごごごめんなさいお嬢さま!」
もう何なの、本当に何なの!
サクラもガーモッド卿も父母の眼差しで見守っていて、既に籠絡されているに違いないわ! これは演技なの! 確信的に家族に取り入ろうとする悪魔の幼体なの!
……んっ!? かっ家族……カイトと……?
「ノウェム、今は許すけど悪戯は程々にね?」
「むぅ、主様には敵わないな。つい嬉しくて興に乗ってしまっただけだ。許せ」
ノウェムはカイトから離れ、今度は素直に背嚢を押し始めた。
何故かアディーテもそれに加わって……まるで仲の良い姉妹のようだわ……。
こうして大人しくしている分には、確かに妹が出来たみたいで、少し、少し……。
……
…………
………………
「カイト! 私は絶対に籠絡されないんだからぁーっ!!」
「はあっ!?」
―――
「この塔、どこまで上るんだ?」
「はい、“秘蹟抱く聖忌教会”は大断崖の上に露出しているので……」
「えっ、三千六百メートル……!?」
「いえ、実際にはその半分もないと言われています。大断崖の中は隔絶された空間なので、外界の距離と内部で実際に進んだ距離は一致しません」
「そうか……これなら、もう一晩くらい休んでからでも良かったかもね。はは」
カイトが気にするわけね。尖塔に入ってからもうニ時間近くは上っているのに、螺旋階段はどこまでも続いてまだ終わりが見えないの。
外側は白色の巨塔、内側も白一色に洗練された空間。第三界層の光景にも驚いたけれど、一体どんな技術で作り出されたものなのかしら……。迷宮自体は神代じゃなくて、現代期に入ってから造られたはずよね……これだけの技術が伝わっていないのは何故……。
……やだ、私ったらカイトに少し似て来ているのかも知れないわ。今までは考えもしなかったことに興味を持つなんて。
「リシィ、大丈夫? 何か落ち着かなさそうだけど」
「えっ、ええ、大丈夫よ。少し考えごとをしていただけなの」
「うん?」
「あ、主様、しばし我慢していたのだが……流石にもう辛抱堪らぬ」
「え? ノウェムまでどうしたんだ?」
「か、かかか厠はないのかっ?」
「何だって!?」
「あ、貴女! 上る前にあんなに水を飲むから!」
「仕方あるまい! 調子を取り戻すまでは喉も渇くのだ! おぬしだって、落ち着かないのは催しているからであろう!」
「ええっ!? ちち違うわっ! 私は本当に考えごとをしていただけなの! 信じて、カイト!」
「う、うん、僕にその言い分は判断しかねるかな? も、勿論信じるけど!」
「うぅぅ……カイトのバカァッ!!」
「何でっ!?」
結局私たちは、途中に一箇所だけある展望室で休憩を取ることになった。
カイトはここからの景観に感動しているけれど、私は見たくもないわ……。
これほど高い場所は、山を越えた時でもなかったもの……あんな隅に近づいて怖くはないのかしら……。
「くふふ、心の淀みが晴れ渡った後にする小用とは格別なものだな。おや、リシィお姉ちゃんは厠に行かぬのか?」
「その呼び方はやめて! 行かないわ!!」
声を張り上げてしまったせいで、振り返ったカイトと目が合った。
変な汗が出て頬が熱くなる、恥ずかしくてどうしようもなくなってしまうの。
かっ、彼の前で小用に行くなんて、出来るわけがないじゃない。これまではそんなこと考えてもいなかったのに、今になってどうして……。
うぅ……ノウェム、どこまでも私を翻弄して……許せないわ……。
今に見ていなさい!
◆◆◆
「すっかり打ち解けていますね」
「うーん、あれはからかって遊んでいるだけだよな……。楽しそうなノウェムを制するのは気が引けるから、今だけは静観するけど」
「ふふ、そうですね」
展望室の地上数百メートルから見る景観は、僕には珍しいものでもない。
一応首都圏に住んでいたから、見下ろす高層ビル群は記憶の中にあるんだ。
流石に都市を取り囲む砂丘は見慣れないけど、更にその向こうには見えない界層境界壁があると言うから、興味は尽きない。
第三界層は端から端まで歩きでも二日ほどと、これまでの界層と比べたら大分狭く、そのため帰路につく探索者たちの長い列が、ここからでも遠目に見えるんだ。
結局、第二拠点ラクィアの人的被害は、今わかっているだけでも衛士隊一個連隊が四割、滞在していた探索者の二割を失った。
一般人は真っ先に避難していて多くが無事だったけど、それでも犠牲者は決して零じゃない。
そして、第ニ拠点の再建には年単位が必要とルニさんが話してくれた。
本当は再建にも尽力したいし、生存者の護送にも協力したいけど、目指す場所を目の前にして片道十日の道程は容易く往復出来ないので、ひとまず帰る彼らと別れて僕たちだけ塔を目指したんだ。
名残惜しかったけど、セオリムさんとは『また会おう』と約束をしたから、きっと近い内にまた会うことになる。ベンガードやティチリカも当分は第一拠点にいるようなので、その時は挨拶に立ち寄ろう。
今は、大切なものを何ひとつ失わなかったことに、ただ感謝している。
「カカッ! それにしても、いつ見ても心打ち震える景観なり!」
「アウー! 雲にも手が届きそー! 美味しいかなー?」
ここ数日で、ベルク師匠とアディーテは何故か意気投合していた。
どう見ても父と娘の家族の団欒で、傍から見ていて微笑ましい。
「サクラ、到着まで後どのくらいかわかる?」
「展望室からですと、順調に行って後一時間ほどでしょうか」
この展望室はがらんとして何もない。内部には尖塔を貫く支柱が中央にあり、その周りを回る螺旋階段の入口があるだけで綺麗なものだ。
第三界層の様子もそうだし、ここはファンタジーRPGで良くある“塔”じゃなく、現代的な電波塔だろうな。
「そうか、一階にあったエレ……昇降機が動いていれば楽だったんだけど」
「はい、直そうと試みたこともあるそうですが、界層の復元によって壊れた状態に戻るそうですね」
「何で“壊れた状態”で固定されているのか、意味がわからないよ」
「“神代の記録”と関係があるのでしょうか?」
「どうだろうね……」
白亜の尖塔は、下から見た時は途中で断ち折れているように見えた。
いや、実際には折れていないんだけど……言い方を変えると、先端が空に突き刺さって見えなくなっているんだ。つまり、そこに本来の天井があるんだろう。
「【重積層迷宮都市ラトレイア】、興味の尽きない迷宮だ」
「はい、そうですね。ふふふっ」
隣に立つサクラが何故か僕を見ながら笑った。
穏やかな微笑を浮かべ、揺れる尻尾は相変わらずしっとりと艷やかで、モフりたいとこれまで堪え忍んだ僕の煩悩をくすぐる。
「サクラ、どうかした?」
「わかりません」
「うん?」
「いえ、きっと、こうして穏やかに過ごせる時間が嬉しいんでしょうね」
「ああ……いつも苦労をかけているからね。サクラ、本当に感謝している」
「はい、大丈夫ですよ。何てことはありませんから!」
「はは、本当にありがとう。頼りにしている」
「はいはい、カイトさん! 私もがんばりましたです!」
眺望に釘づけになっていたテュルケが唐突に手を上げた。
強化ガラスに額をくっつけていたから、おでこが赤くなっている。
「うん、テュルケもいつもありがとう。頼りにしているよ」
「えへへ~♪」
穏やかな時間か……偽神と墓守が存在する限りはただの夢幻だ。
僕はこの平穏を本物にしたい。無理を押し通してでも勝ち取りたい。
困難を強いることは心苦しいけど、皆も一緒に来てくれるだろうか……。
だから、今は――。
「みんな、登ろう。目的地はもう直ぐだ」