第五十三話 “黒い衝動” 僕は誰がための僕なのか
心底から噴き出した憤りが、視界を血のような赤に染める。
意識を侵蝕しようとするのは、全てを破壊しろと誘う黒い衝動。
堪えることが……出来ない……。
――ドサッ
「あ……はっ、あぅ……力が……」
背後でリシィが倒れた。
彼女から僕に流れ込む銀光は、強制的に力を吸い上げているのか。
ダメだ、やめろ、リシィが――墓守を討ち、砕き、討滅しろ――!
「ティチリカ、ノミをよこせ!」
「は、はわ、ななななんなノン!」
「よ、こ、せ!!」
「は、はいなノン!!」
ティチリカがノミを放り投げた。
「カイ……ト、ダメ……」
僕がノミを受け取る隙を突いて、正騎士の赤光を纏った拳が迫る。
その勢いは轢き殺す勢いのダンプカーの如く、だけど狙いは僕じゃない。
「オマエ、リシィに何をする……!」
僕を無視しようとする鉄塊を側面から殴った。
あまりにも無謀な質量差は、適うはずもない拳対拳。
だけどこれは神の拳だ、鋼鉄で出来た拳をも穿ち貫く神断の一撃。
神器の右腕は正騎士の装甲を紙のように突き通し、鋼拳の奥深くまで貫突して芯を掴む。
――ゴッギンッ!!
正騎士の腕がへし折れる音と、自分の骨の砕ける音が重なった。
構うことはない、例え砕けても神器が侵蝕して骨の代わりになるんだから。
骨が砕けても、筋が断裂しても、全身を神器に変えて敵を滅せば良い。
正騎士は腕を引き千切られ、体勢を崩して膝をついた。
もうその脚もガラクタ同然なんだろう、なら要らないはずだ。
僕はノミを破断した右膝装甲の隙間に捩じ込み、力任せに殴る。
――ボキュッ! ドンッ!!
正騎士は今度こそ右膝を爆砕して失い、無様にも倒れ伏した。
何が“正騎士”だ。上に立って正しきをなすのなら、これしきのことは抗ってみせろ。
さあ、これ以上に覆せるものなら覆してみせろ……僕が相手だ!
「はは……はははは、あははははははははははははっ!!」
正騎士はもう動けない、両腕を失って今右脚も失った。ビルの谷間には、無様に左脚だけでもがくアスファルトを削る音と、僕の高らかな笑い声だけが反響している。
……
…………
………………
……何だこれは。僕は、何をしているんだ。これは僕で、僕じゃない!
やめろ……“三位一体の偽神”!!
――パァンッ!!
僕の頬を平手が打った。
目の前には、青い瞳で酷く悲しげに表情を歪ませる、僕の大切な女性。
涙がこぼれ落ち、引き絞った唇からは今にも嗚咽が漏れそうだ。
僕は、何を……リシィを悲しませる、つもりなんて……。
――ゴッ!!
「カイトッ!?」
僕は左腕で自分の頬を殴った。
生身の拳と言えども、腐っても神器の恩恵がある。
思った以上の強い衝撃に昏倒し、路面で体を強く打ってしまった。
痛みと揺れる視界の中で、リシィが悲しげに僕を覗き込んでいる。
「痛たた……」
「カイト、カイト! しっかりして!」
大丈夫……大丈夫だ……。
もう黒い衝動には侵されていない……。
意識をしっかり持て……僕は……僕だ!
「リシィ、ごめん……我を失っていた。本当にごめん」
――パァンッ!!
また引っ叩かれた。
「バカッ! バカバカバカバカバカバカッ、カイトのバカァッ!!」
「あの……本当の本当にごめん。リシィは、その、大丈夫?」
「知らないんだからっ! カイトのバカッ!!」
叩かれながらの酷い言われようだけど、それは受け入れる。
主のため、リシィのために、どんな衝動にも堪えて事をなす。
じゃなければ、誰がための騎士だ。情けない。
僕はよろよろと、あまりにも無様に立ち上がる。
「リシィ、立てるか? 力を吸い上げてしまって、こんなことをお願いするのは身勝手だけど、光矢で正騎士に止めを頼みたい」
「ぐすっ……良いわ。従者の不始末は主の責任でもあるもの。肩を貸しなさい」
リシィを立ち上がらせて支える。
僕の半身にかかる体重と彼女の震える脚は、今やらかしたことの結果だ。
奴らの操る衝動に飲み込まれ、大切な女性を危険に晒してしまった。
震えるリシィは、それでも握り締めた黒杖を力強く空高く掲げる。
「これで本当に終わりよ。滅しなさい、正騎士!」
金光が集って光矢を形作り、更に収束する光は矢を槍に変えた。
光に煌めく槍……僕の右腕のくすんでしまった灰色よりも、遥かに綺麗だ。
光槍は、もがくだけになっていた正騎士の破断部分から侵入し、内部で炸裂して光の粒子と消えた。
巨大な鋼鉄の騎士は、今度こそ本当に動きを止めたようだ。
終わったのか……これは、また反省しないとな……。
「あノン……もう大丈夫なノン?」
ティチリカがいつの間にか上から降りていて、恐る恐る声をかけてきた。
「ああ……正騎士は、あれじゃもう動かないだろう。一応警戒だけは緩めないで。それと、その……ごめん。ノミを台無しにしてしまった」
「大丈夫なノン! まだいっぱいあるノン!」
ティチリカはそう言って、ふわふわの尻尾の中から大量のノミを取り出した。
明らかに尻尾に収まっていた量じゃない、どうなっているんだ……。
「ティチリカは大丈夫そうだ。リシィ、動けるか?」
「ええ……カイトに神力を吸われて、立っているのもやっとだけれど」
「それは……本当にごめんなさい……」
「良いわ、後で体で返してもらうから」
「わかった。何でもするよ」
僕ももう立っているのがやっとだけど、皆の安否確認と手当が先だ。
今直ぐに駆け寄りたいけどそれも出来ず、リシィと支え合って皆の元に向かう。
「リシィ、テュルケを」
「ええ」
サクラは壁に打ちつけられたようで気を失ったまま、テュルケは少し離れた道路上に俯せで倒れている。
リシィにテュルケを任せてサクラの脈を確認すると、どうにか反応がある。意識を失っているだけで、生きている。後頭部や背中も慎重に確認したけど、受け身を取ったのか、出血などは見られなかった。
「サクラ、サクラ、僕の声が聞こえたら返事をして」
あまり揺すらず、サクラの頬に軽く手を当てて呼びかけると、彼女はようやく薄く目を開けた。
「う……カイ……ト……さん?」
「サクラ、良かった。僕だよ、大丈夫か?」
「う、あ……だい、こほっ! こほっ!」
「焦らないで、正騎士は討滅したから。ゆっくり、体の状態を確認して」
サクラはぼんやりと自分の体の状態を確かめ、しばらくして意識が回復してきたのか、焦点の定まった視線で僕を見た。
「カイトさん……私は大丈夫です。他の皆さんは?」
「今リシィがテュルケを、ティチリカが生存者たちを見ている。ベルク師匠は……」
「ぬぅ、迂闊だった。あのような技を持つとは……正騎士、侮れん」
無事なようだ。目立った外傷もなく、確かな足取りでこちらに向かってくる。
アディーテも彼の肩に担がれていて、『アウゥ~』と唸りながら肘を舐めているだけで大丈夫そう。
「姫さまぁっ!」
テュルケも意識を取り戻し、傍にいたリシィに抱きついた。
額から血が垂れているようだけど、リシィが丁寧に拭って慰めている。
「カイト殿、正騎士のあの様は一体何が……」
「……すみません。僕の右腕……いや、僕が?暴走してあんなことに」
「えっ!?」
「何と!?」
“暴走”と言っても良いのだろうか、それとも“操られた”……か。
今までの衝動とは違った、“黒い衝動”に流されるままに流されてしまった。
あれはダメだ。もう二度と飲まれるわけにはいかない。
来ることがわかっているのなら、次は抗ってみせる。
リシィを悲しませるような真似は、二度としない。
「カイトさん、大丈夫なんですか!?」
サクラが今の話を聞いて突然慌て始め、僕の体をまさぐり始めた。
心配してくれるのはありがたいけど、服の中にまで手を入れてさわさわと撫でるのは勘弁して欲しい。
「サ、サクラ、僕は大丈夫……」
あれ、そう言えば満身創痍だけど痛みがない。
サクラの視線が一点で止まって僕の右肩を見ている。
「あの……カイトさん、それは……」
視線の先を見ると、“肩当て”が目に入った。
「えっ……!?」
覆っていたのは上腕までだった神器の篭手が、今は右肩まで来ている。
そうだ……暴走している時、『神器が侵蝕して骨の代わりになる』と思っていなかったか……。
侵蝕された……!?
自分の状態を認識して顔を上げると、リシィと目が合った。
愕然とした表情で僕の姿を見ている。恐らくはリシィにも誰にも、僕の体に何が起こったのかを把握している者はいない。“三位一体の偽神”を除いて。
何てことだ……このまま侵蝕が進んだら、僕は神器になるのか?
何なんだ、一体全体何がどうなっているんだ……!
「カイト殿!! あれを!!」
突然、空を仰いだベルク師匠が声を荒げた。
何だ……彼の視線の先、空に何かいる。
「バカな……」
最悪を超える最悪を想定し、絶望を覆してもなお更なる絶望で覆される。
この世界は、どこまで人を絶望で塗り固めれば気が済むんだ。
界層世界《箱庭》を今も見下ろす“神の視点”、お前らは一体何が望みだ……!
そこには空高く、“弩級戦艦”と仮称された超大型【鉄棺種】が存在した。