第零話 これから訪れる“ ”へ――
――【重積層迷宮都市ラトレイア】。
青炎だけが燻る、焼失してしまった名もなき灰都。
闇夜にはあの時と変わらずに青銀の月が昇り、朽ちた街灯もまた朧気な青白い炎を灯し、訪れるすべての者にかつての繁栄の跡を幻視させる。
――ズシュ……ズシュ……ズシュ……ズシュ……
そんな廃墟のただ中を我が物顔で歩くのは、生体機甲“カルナグル”。
今の世界の言葉で“餓えた狼”を意味するこのモンスターは、その名が示す通り四脚の獣、“狼”の似姿をした鋼鉄の体を持っている。
体長は五メートルほどと他と比較して小型ではあるが、靭やかな体躯を駆使し獲物を追い詰める様は、まさに狼。そして狼の習性を模倣されるがゆえ、常に三個体以上の群れで行動していることも事実だった。
――ズシュ……ズシュ……ズシュ……ズシュ……
足音は灰の降り積もった石畳を踏み遠ざかっていく。
餓狼が通り過ぎた瓦礫の背後には、息を潜める一人の来訪者。
そう、いまだにこの大迷宮では時の彼方より迷い子が訪れていたのだ。
誰もがまずは夢だと思う。そしてその中で生き残れるのは、この大迷宮を跋扈する数多のモンスターと遭遇する前に現実だと認識し、隠れ潜んだ者のみ。
しかし、それもまた運よく通りすがりの誰かに見つけられないことには、やがて陽光の届かない迷宮の奥で誰とも知れない骸となるだけだろう。
幸いにもその者は早い段階で気がつき、間近に迫った餓狼に見つかることもなくやり過ごすことはできた。
だがそれと同時に、溜め息を吐くその者はこの先の己の運命まで悟ってしまい、行き場のない怒りと呪いにも似た怨嗟の感情を胸に抱いてしまう。
ここはどこなのか、ここから抜け出るためにはどうすればいいのか。
その答えは、どうしようともない。
――ズシュ……
その者が混乱する思考から顔を上げると、目が合った。
人ならよかったが、その目は紛れもなく青く輝く餓狼のものだ。
隠れ潜む廃墟の反対側の壁、脆くも崩れ落ちた窓枠から、人の大きさほどもある頭部が確かに自分を視認していることにその者は戦慄した。
頭によぎったのは自らの“死”。
――ゴッ! ゴガアアァァアアアアァァァァァァァァァァッ!!
餓狼が打ち入ったのと同時にその者は廃墟から逃げ出した。
得体の知れない存在に襲われ混乱しながらも、冷静に逃走路を選択する。
できるだけ人一人が通れる狭路に、だがそれも廃墟となったこの都では阻む防壁もなく、いずれは体力に限界の訪れる人が不利だろう。
その厳然たる事実を突きつけるかのように、餓狼は狭路であろうとも立ち並ぶ廃墟を薙ぎ倒し、今日の獲物はおまえだと言わんばかりに追い駆けてくる。
自らの“死”が実体を持ち、背後からどこまでも迫ってくる。
――ドギャッ!!
『ゴァアアァァアアアアァァァァァァァァァァァァァァッ!!』
その者は、まるで他人事のように「これで終わりだ」と考えた。
餓狼から逃げ、狭路を抜け、大通りに抜け出たところで、さらなる餓狼が石畳を砕いて目の前を塞いだからだ。
人一人を丸飲みにしてしまうほどの大顎から吐き出された咆哮は生臭く、一見すると機械にしか見えない体の内は明らかに生物のものだった。
これで本当に終わりだ。
飢えた狼の姿をした“死”は背後に一体、目の前に一体、さらにその左右からも二体がゆっくりと近づいてくる。
取り囲まれ逃げ場もなく、矮小な人ではどうしようとも逃れることは不可能。
その者は嘆く、「なぜ、運命とはこんなにも不条理なのか……」と。
――キンッ……ドガァッ!!
だが、丸飲みにされることを殊勝にも覚悟したその時だった。
目の前を黄金色に輝く閃光が通り過ぎ、そのたった一撃で餓狼の一体が脳髄と機械部品を撒き散らした残骸に変わった。
異変はそれだけではない。何者ともわからない存在が、今まさに人を襲おうとした餓狼を逆に急襲し一方的に相手取っている。
その者は余計に混乱する。目の前の出来事を現実と認識することもできず、ただスクリーン越しの映画を見るかのように傍観しているしかなかった。
鉄鎚を振るい、着物に袴姿の犬耳と尻尾が生えた女性。
一見すると幼女だが、後頭部で十二枚もの光の翼が輝く天使。
背は小さいが身の丈以上の長刀を巧みに扱う、猫耳と巻角のメイド。
槍と巨体による一撃で餓狼を粉砕する、雷を纏った竜のような顔貌の騎士。
パーカーから目に余る褐色肌を露出し、つるはしのような武器を持つ少女。
彼らは一陣の閃風となり、その者が瞬きをする間に餓狼を制圧する。
――ズガンッ!!
そして、背後からもひときわ大きな破砕音が鳴り響いた。
驚き振り向くと、そこには石畳に突き立つ黄金色の槍の上に立つ一人の男性。
右腕と右脚に槍と同じ黄金色の甲冑を装備し、にもかかわらず服装は元の世界で見かけるものとそう変わりないミリタリージャケットとジーンズの出で立ちだ。
視線は鋭く、黒眼黒髪の顔貌は歴戦の様を見せつけるものの、日本ではどこでも見かけることのできる馴染んだ印象も感じられる。
『ガッ、ガッ……ブシュゥゥウウゥゥゥゥゥゥッ……』
餓狼は男性が石突きに立つ槍で頭部を貫かれてしまっていた。
そうして、断末魔の代わりに黒ずんだ体液を噴き出し動かなくなる。
「間一髪だったな」
驚いたことに、その男性が発した言葉は他ならない日本語だった。
男性は槍から飛び下り、訳もわからずにへたり込んだその者に近づく。
「間に合ってよかった、日本人だろう?」
その者は発せられた言葉に一瞬だけ困惑したものの、自分に語りかけられたものだと理解すると恐る恐る首を縦に振る。
「怖がらなくてもいい。君を保護する、もう大丈夫だ」
問いかける言葉は優しく、それ以上の他意はないように思える。
「君の名は?」
名を問われ、その者は普通に答えてもいいものかと躊躇ったものの、理解ができないまでも間違いなく恩人であるのなら正直に答えようと口を開いた。
「……名前は……“ ”」
それは、その者がこの大迷宮に迷い込んでから初めて発した言葉だった。
「そうか、いい名だ。あ、こちらから名乗るべきだったな。僕の名は“久坂 灰人”、君と同じ異世界に迷い込んだ同じ日本人だ。悪いようにはしないよ」
「ここ……は……?」
「【重積層迷宮都市ラトレイア】、まずは安全な場所まで移動する」
「どこへ……?」
「“迷宮探索拠点都市ルテリア”、僕たちの住む街さ」
「ここから……出られる……?」
「ああ、君は運がいい。僕たちは“龍血の姫”のパーティだから」
「りゅうけつ……のひめ……?」
「ああ、彼女のことだ。その名も……」
今、この場所から新たな来訪者による旅が始まる。
己の運命を変えるも、世界の不条理を覆すも、それはその者の自由。
どんな暗闇であろうと、人の心に青光が灯る限りやがて黎明は訪れるのだから。
そう、彼らの旅路は“この世界”と共にどこまでも続いていく。
完
長かった彼らの旅にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。
これにて、ひとまずの完結となります。
とはいえ、完全に“この世界”が終わったわけではありません。
間もなく公開予定の新作はジャンルこそ“VRMMO”ですが、時間軸が墓守による東京大侵攻のあととなっています。
未来からの帰還者の存在、墓守によってもたらされた知識と技術によってAIにシンギュラリティが起きた時代、作中で舞台背景こそあまり多くは語りませんが、本作“わらツン”との繋がりに考察を楽しめるものとなっています。
そんなわけで、新作『ワールドリィンカーネーション ~現実をリタイアしたおじさまは推しのためなら♀落ちしようと楽園をつくりたい~』を追ってご期待いただけたら幸いです!
ひとまずは、ご覧いただけたすべての皆様に心からの感謝を!