第百九話 彼女の安らぎ
◇◇◇
「ふぅ……落ち着けるのはこの時間だけね……」
王都に戻ってから三週間、私は公務に追われ昼も夜もない生活を続けていた。
唯一休めるとしたら、今この時の入浴時間だけ……。
「皆も支えてくれるけれど……【黒泥の龍皇】の件よりも、むしろお兄様が残した遺恨のほうがよほど対応に困ってしまうわ……」
私がいない間、それまでも実務を担当してくれていたお兄様やデュリシャウスを筆頭とする大臣がいたから、この国は滞らずに動いていた。
けれど、私がいなくなったのをいいことに、よくよく調べてみると内外ともにやりたい放題で酷い有様だったんだもの。
国家予算の私的利用は可愛いもので、人身売買、麻薬取引、公権を利用した犯罪組織への肩入れ……それにデュリシャウスの私邸を調査したところ、多くの女性たちが囲われ薬漬けにされていた……。
だから、民の王家に対する不信感は募り暴発寸前、それでも持ち堪えていたのはお母様とお父様の存在があったから……。退いた元“龍血の姫”が一切の権力を失うこの国の政治構造にも問題があったのだけれど、にもかかわらずお母様とお父様は裏で多くを取りまとめてくれていた……。
元はといえば私が目を離したから……。ノウェムも責任を感じてか、本来は嫌なはずのセーラム高等光翼種の威光を振りかざしてくれている。
エウロヴェによる策謀があったとしても、どうしたところで自身が招いたことには責任を取らなければならないわ……。
「疲れた……。まだまだやらなければならないことは多くあるけれど、明日は戦勝の労いと、元老院の新体制を皆に知らしめるための祝賀会……。今日ばかりはゆっくりと湯に浸かって、疲れを残さないようにしないといけないわ……」
ここは旅に出る前と何も変わらない、お母様とお父様の住む館。
私は今、その中庭を窓越しに望める湯船に浸かりながら、公務で強張った体を解すために少しの休息を取っている。
湯船は数十人が一緒に入れるほど広くて手足を伸ばせるけれど、今は私一人しかいないからどうしても寂しく思えてしまう。
休息のためあえてランタンを少なく配してもらったことが、かえって内部の薄暗さとひと気のなさを強調してしまっているよう。
「それにしても、いったい何をしているのかしら……」
最近、私が気にしているのは他でもないテュルケのこと。
旅の間はあれほど私の傍を離れようとしなかったのに、帰ってきてからはいつもどこかに行ってしまって、今だって脱衣所で待機する侍女の中にもいない。
就寝間際と起床時には必ずいて笑いかけてくれるから、どこか遠出しているわけでもないらしいのだけれど……何か引っかかるわね……。
「近いうちに問いただしてみようかしら……。いえ、テュルケは私に隠し事をしないから、言わないのだとしたらよほどのことがあるのね……。困ったわ……」
独り言は湯の上を滑り抜け、壁に当たってやはり誰にも届かず反響した。
そんな私以外に話す者のいない湯殿で、特に理由もなく音を立てないように湯をすくい上げ、首筋から肩口までを撫でて汗を拭う。
いつもならこんな時でも必ず誰かがいた……。望んでいた平穏がすぐ傍にあるはずなのに、今はなんだか余計に遠ざかってしまったかのように感じる。
世界がよりよい方向に変わっていくのは望むべくこと……それなのに、今はなんだか変わってしまうことが何よりも怖い……。
「しっかり……しないと……」
神龍テレイーズのことだってある。
彼女の存在があるからこそ、本来はさらなる混乱で国そのものが二分するような事態も、少なくとも今は収束する状況にはあるの。
問題は彼女がどこまで人の中で暮らせるかだけれど、今は一般教養から学んでもらうことにして、何よりもその大きな力の正しい使い方を考えなければならない。
……
…………
………………
ダメね。せっかく湯に浸かって今ばかりの休息に身を委ねているのに、考えることときたら結局は公務の時と何も変わらないわ。
本当にこの時だけなんだから、もう少しゆったりとはできないものかしら……。
「それもこれもカイトが……」
傍にいてくれないから……と言いかけて私は口を噤んだ。
それは他でもない、テレイーズの護衛を頼んだのは私なのだから……。
気を取り直すため、私は自身の両頬を手で強く叩いた。
「しっかりしなさい、リシィティアレルナ ルン テレイーズ。お母様とお父様に王権を返上するまでは、私がこの国の未来を示さないといけないのだから。弱音は吐いていられない、自分自身のためにも今はしっかりと足元を踏み固めるの」
積み重なった難題に心が挫けそうになることはあるけれど、それもこれも大切な男性との未来のために、今は耐えて進むの。
そうして私は国に帰って何度目かの覚悟を再び胸に秘め、湯に浸けないよう纏め上げていた髪を解いた。
暖かい湯に浸かったことで心と共に緩まってしまったから、今一度改めて気を引き締め直すよう、両手を手櫛代わりに梳いて纏める。
「明日は久しぶりにカイトが傍にいるのだから、いつもよりも丹念に髪も肌も手入れしないといけないわ。べ、別に何かを期待しているわけではないけ……」
「なんか怖いな……本当に変な企てはなしだよ?」
……っ!?!!?
誰もいないはずの湯殿に、不意にカイトの声が聞こえたと思ったら、本当に洗い場に彼の姿が現れた。
え……え……? どういう……ことも何も、彼が通り抜けた転移陣を見れば誰の仕業かは一目瞭然だわ。
カイトは目隠しをされ一歩二歩とフラフラ歩き、足元の感触を確かめるように足を踏み鳴らしている。
「ん? 足音が変わった……それに何か湿っぽい……。確かにお願いはできるだけ叶えると言ったけど、館から出るのはなしだよ? ノウェム?」
対して私はというと、彼の目の前で裸、湯の中で膝立ちになり髪を纏め上げている途中で硬直してしまったから、隠すものも隠せていない。
け、けれど、少しでも身動いだら、湯をかく音で目の前にいることが……。
私が現状の対処に困惑していると、当の犯人のノウェムが転移陣からひょこりと顔を覗かせた。もちろん、私の様子を真っ先に認めニマリと笑って。
「主様よ安心するがよい、約束通りに館からは出ておらぬ。なに、ほんの少し寂しそうにする輩を慰めてもらおうと思うてな。それでなくとも主様は奥手だから、こうでもしなければ我の番が一向に回ってこぬのでな」
「うん、どういうこと? もう目隠しを取ってもいいか?」
「もう二、三歩前に進み出てもらえるか、然らば取っても構わぬぞ。くふふ」
「ノウェム、信じるよ?」
「少なくとも、よきことしかないぞ」
「わかった」
「素直なのは美徳よの。くふふふふ」
そうしてノウェムは転移陣と共に消え、湯殿には私とカイトだけが取り残された。
彼はノウェムの言葉に素直に従って一歩、二歩と踏み出す。
私は身動ぐこともできず、声を上げることすらできずにただ見守る。
いえ、本当は期待してしまったから、自ら気配を殺したのかもしれないわ……。
意地汚い……はしたない……けれど……けれど……。
◆◆◆
――ガッ!
「おわっ!?」
――バシャーーーーーーンッ!!
僕はノウェムに見せたいものがあると中庭に呼び出され、それから目隠しをされて進んだところ、すぐに躓いて暖かい湯の中に落ちた。
ビックリしたけど、この館で湯が張られている場所なんて一箇所しかないから、要するに一緒にお風呂に入りたかったのだろう。本当に懲りないな……。
まあしかたないか……せめて水着を着るのなら……。
――むにゅん
「……うん?」
湯の中、痛かったり熱かったり柔らかかったり、いろいろな感覚の整理がついてくると、頬を包み込む柔らかさだけが何よりも際立って僕の心を満たした。
状況を確認するため咄嗟に目隠しを取ったのは失敗だ。
不可抗力で押し倒してしまった人物の姿を見て、僕は言葉を失う。
「……」
「……」
心臓が止まるかと思った。いや、止まった。
鼻先一寸の距離で、僕を真正面から見詰めていたのはリシィ。
白い肌は汗と湯が滴って艶かしく上気し、湯に広がる金糸の髪も美しい肌をよりいっそう煌めかせ、その御姿は浴室に降臨した美の女神で間違いないだろう。
僕は一瞬で状況を把握し、ギリギリ視線を胸元で止めたためにそれより下へは行かず、たぶんセーフだと思う。いや、乙女心的にはアウトなのか?
と、とりあえず……。
「その……本当にごめんなさい……」
僕はゆっくりと体を起こし、服を着たままでは湯を汚してしまう心配をしながら、洗い場まで引いて後ろを向き、きっちりと正座した。
なんらかの罰か、リシィの許しを得たらすぐにでも出ていきたいと思う。
「あ……い……」
そして、彼女は何かを呟いたようだけど僕にははっきりと聞こえず、すぐに湯から上がりペタリペタリと床を踏む水音が近づいてきた。
引っ叩かれるのも覚悟だ……ノウェムをバカ正直に信じた僕の不始末だから……。
だけどあとに続いたのは、予想とは裏腹の背に寄り添う柔らかな感触だけ……。
こ、これは、まさか……。
「べ、別に……カイトになら、見られても構わないんだから……」
この日、僕は魂だけで空を飛べるスキルを会得した。