第三十五話 そして迷宮へ――
日本料理屋『鳳翔』に行った日の夜。
「あった」
直ぐにではないけど、パーティの仲間が見つかったら迷宮に入るつもりの僕たちは、少しずつ探索の準備を始めていた。
その途中、かねてより探していたサクラの懐中時計を、ようやく見つけることが出来たんだ。僕を運び込んだ時に脇に置かれたのか、何故かベッドのサイドテーブルの引き出しに入っていた。
これは何よりも大切なものだから、宿処の中にあって本当に良かった。
もう夜も大分更けているけど、サクラはこの時間ならまだ起きているだろう。
僕は自室を後にして二階の彼女の部屋まで下り、静かに扉を叩いた。
「サクラ、起きている?」
「はい、今開けますね」
扉は直ぐに開け放たれ、サクラが顔を覗かせた。
湯上がりなのか、まだ上気している肌と少し濡れた髪で、『何でしょう?』と小首を傾げる様が何とも色気を感じる。薄い蜂蜜色の浴衣が、普段のきちんとした身なりとは印象を変えて、僕はドギマギと心臓が跳ねてしまった。
「サクラ、これ、借りたままになっていた懐中時計。ありがとう」
「あ……ありがとうございます」
サクラは、静々と淑やかな仕草で懐中時計を手に取った。
彼女のどこか物憂げな様子に心を駆り立てられ、頬が熱くなるのを感じる。
何だろう……今のサクラは、普段とかなり印象が違う……。
「サクラ、どうかした?」
「いえ、何でも……ではないですね。本当は、迷宮に入って、もしもカイトさんを失ってしまったら……と考えて、不安になっていたんです」
見ると、犬耳は倒れ、尻尾は力なく垂れ下がって肩は振るえている。
砲狼との戦い……あれは生かされただけだ……。もしも“三位一体の偽神”の存在がなかったら、僕は確実にあそこで終わっていた。
そして、意識を失っていた九日間、彼女がどんな思いで僕の治療をしていたのか……それに気が付くと、途端に自分の中で消化し切れない気持ちが溢れ出す。
僕は、うつむいたサクラの頭を不意に撫でた。
自分の気持ちを誤魔化す、そんなどうしようもない理由から。
酷い人間だ……彼女の不安な気持ちも、自分自身のやり切れない気持ちにも、何も答えを出せないまま、ただ誤魔化している。両親がいなくなった時と同じ、どうすることも出来ずに、ただ無力を噛み締めているだけ。
……今は、覚悟をするしかないな。
奢らず、慢心せず、うつむかず、間違えないようにと願い、ただ前へ。
「サクラ、僕は自分勝手な人間だ」
「え? いえ、そんなことは……」
「僕は自分自身が悲しまないために、みんなに笑っていて欲しいと願う」
「えっ?」
「だから、サクラの全力を僕に預けて欲しい。誰もが、いつまでも笑っていられる場所を作りたいから」
身体を強張らせていたサクラが脱力した。
今はこれで良い。半分は無理だと思いつつも、半分は本気だ。
ならやるしかない、僕はどうしようもなくわがままなんだ。
「ふ、ふふっ……もう、仕方のない人ですね。ですが、わかりました。私の“焔獣”の力を、全てカイトさんに預けます」
サクラが笑う。蕾が開くように、静かに花を咲かせる。
「……あ、え、ササ、サクラ?」
ゆるりと、サクラは一歩を踏み出し、僕に体重を預けてきた。
胸にかかる心地の良い重み、だけど男の僕には少し刺激が強い。
「少しだけ……で、良いです。少しだけ、このままでいさせてください」
「う、うん、わかった……」
濡れた髪からは、いつもの甘い花の香りはしない。と言っても、石鹸の香りもフローラルなので、結局は花の良い香りがする。静かな夜陰に聞こえるのは心音だけ、緊張した自分のものなのか彼女のものなのかは良くわからない。
手持ち無沙汰な腕が、行き場に困って中空を彷徨ってしまっている。
だけど、僕は意を決して、自らの腕の行き場所を決めた。
抱き締めるまではいかない、ただ彼女の背に添えるだけ……
……
…………
………………
……のはずだったけど……『これはしまった!』だ。
僕は機械仕掛けにでもなってしまったかのように、ギチギチと首を回す。
――ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ
幻聴だろうか、地鳴りが聞こえる気がする。
回した視線の先には、廊下の先に佇む細い人影。
「カ~~イ~~ト~~~~?」
「ほわっ!? リシィさん!?」
リシィは目映い金光を垂れ流し、何本もの光矢を自身の手に収めている。
「な、なに? 僕は何もしていないよ? え、どうするのそれ?」
そんなの入らな……アーーーーーーッ!?!!?
……
…………
………………
将来、もしも自伝を出すようなことがあれば、僕は後世の者のためにこう書き記すだろう。
『龍血の姫 の 激おこ 世界 を 七度滅ぼす』――と。
◇◇◇
カイトがサクラを抱き締めているのを目撃した夜から三日。
私たちは今、大荷物を抱えて探索者ギルドの前まで来ていた。
「リシィ、そろそろ機嫌を直してくれないかな……?」
「ふん! 従者だからって、いつも主の機嫌を伺っている必要はないのよ!」
「ぐふっ!」
カイトは項垂れて、私から離れた皆のところに行ってしまった。
……べ、別に彼に怒っているわけじゃないの。抱き締めていた件については、サクラが後で事情を話してくれて、慰めていただけなのは知っているもの。
もしも逆の立場だったのなら、ほんの少しの時間でもそのままにして置いてもらいたいから、サクラには謝ったわ。
た、ただ、カイトの腕の中にいたのが、サクラじゃなくて私だったら……と重ねて見てしまったせいで、どう反応したら良いのかわからなくなっているのっ!
ん……私はもっと心を強く持たないとダメね……。
「ね~ちゃ~、あい!」
「あ……ムイタ、これを私に?」
「あいっ!」
「ありがとう、ムイタ」
噴水広場には、ヨエルとムイタとユキコが見送りに来てくれている。
ムイタに渡されたのは、綺麗な艶のある青色のリボン。彼女の頭を撫でてあげると、身をよじって恥ずかしそうにしているわ。可愛い……和むわね……。
けれど、しばらくは彼女とも会えなくなる。
私たちは、ガーモッド卿が快く同行を引き受けてくれたことで、これから【重積層迷宮都市ラトレイア】に入るの。
「あら、リシィさん、こんにちは。これから迷宮に入りますの?」
「エリッセ、こんにちは。ええ、まだ不安は残るけれど、テュルケと二人だけの時よりは、随分と頼もしいパーティに巡り会えたわ」
「それは何よりですわ。ですが、お気を付けくださいませ」
エリッセは迷宮第一正門の管理者、つまりはここのギルドマスターで、サクラと同じ執行官でもあるわ。
そんな立場にある彼女が警戒を告げる……カイトのようにその先まで読むことは出来ないけれど、只事ではなさそうね。
「エリッセ、それは……」
「今度は浅層で、“正騎士”らしき巨影を目撃した探索者が現れましたの」
「え……確か、まだ未討滅の墓守……」
「ええ、ですからリシィさん、鉢合わせしないようにお気を付けくださいませ」
突如もたらされた情報に、私は身体を強張らせてしまう。
もしも、カイトに不安だと告げたら、抱き締めてくれるのかしら……。
ううん……いけない、気を引き締めないと。私たちが挑むのは、あのセーラム高等光翼種なんだから……気が逸れていては決して勝てる相手じゃないわ。
「わかったわ。エリッセ、忠告をありがとう」
「どういたしましてですわ」
「あれ、エリッセさん、こんにちは。砲狼の時はありがとうございました」
「こんにちは、カイトさん。いつでも頼っていただいて構いませんわ」
「はい、また何かあったらお願いします」
不思議とカイトはいつも通りね……緊張はないのかしら……。迷宮に入るのに、墓守と対するのに、私はこんなにも不安なのに、彼と来たらいつも通り皆に愛想を振りまいて……それとも、内心は……。
カイトと目があった。
本当にいつも通り、私にも優しく微笑みかけてくれる。
あの屈託のない笑顔はずるいわ、頬に熱を感じてしまうもの。
「リシィ、ユキコさんからお弁当を貰ったよ。お昼に食べよう」
私たち、本当に迷宮に挑むのかしら……ピクニックじゃないわよね……。
けれどそうね……カイトらしいと言えば、とてもカイトらしいわ。
「ええ、何があっても引っ繰り返さないで。身命を賭して、守り抜きなさい!」
「え!?」
今度は皆がいる、カイトもいる、だから恐れずに進むの……!