第百五話 沈む水底から
「……ゴボッ」
え……?
テレイーズの心象世界で何も見えなくなるほどの光に包まれ、次に体の感覚に目を開くと真逆の濃い暗闇の中にいた。
少しの浮く感覚と、それでも沈み続ける体。いまだ夢幻の中にいるのかと思ったけど、息苦しさと体の圧迫感に数瞬でここが水中だと認識することはできた。
遠い水面には淡い月明かりが揺らめき、手を伸ばしたところですでに届かない深さまで沈んでしまっている。
そして、僕はまず視界の確保のため右腕に力を込めて金炎を強めた。
「ガボッ……!」
「まずい……!」と言ったつもりだ。
状況を確認しようと首を振ったところ、僕の真下に少女が、テレイーズが同様に沈んでいたからだ。
目を閉じて意識はなさそうで、“創生”の力で肉体は再生されていたものの、脱力したまま青い神力の光を放つ湖底に落ちていく。
ただ手を伸ばせば届く距離で、僕はすぐに彼女を掴まえて抱き寄せ、だけどそれ以上は浮上もできず必死に動かす右腕が虚しく水中を掻いた。
冷たい水温に凍えて動かない体は、もがけばもがくほどに沈んでしまう。
「ゴポッ……」
今一度、月明かりに淡く揺らめく水面を見上げる。
その先には、きっと憧れ願い続けた平穏が待っているにもかかわらず、今の僕に残された力では届かない。
そして、時折そんな憧れをも隠してしまうように、僕たちの周りでは夥しい量の黒塊が沈んでいく。
水中に降る黒い雪とでも言い表せばいいのか、テレイーズ自身がなっていた“核”を失い、大龍穴湖の底に沈む【黒泥の龍皇】の残骸だ。
こうしてまたひとつの戦いが終わり、だけど水面はどこまでも遠ざかる。
いくらもがいても、届かず。
それでもなおもがいて、どうすることもできない。
帰りたい、皆のもとに。帰りたい、何よりもリシィのもとに。
願ったんだ、約束したんだ、生涯を君と共にいると。
ずっと、ずっと、リシィの傍で――。
――キュウウゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ……
息苦しさから満足に体を動かせなくなってきた時、水壁に阻まれて篭もったなんらかの音が聞こえた。
すぐに朧気な視界を埋めたのは、僕を迎えにきた天使か女神かと見紛うような美しい少女だった。こんなに美しいのなら死神でも構わない。
そして、少女は僕に口付けをする。
この世の極上があるとするのなら、これほどの柔らかい感触をおいて他にはないと思う。口腔に流れ込むのは女神の吐息か、餞別としては最高の……。
いや、リシィだ。
今にも泣きそうで苦しそうで、それでいて欲してやまなかった可憐な表情のリシィが、僕に口移しで直接空気を送り込もうとしているんだ。
「ゲホッ!? ゴホッ! ゴホッ!? 息が……できる……?」
「よかった、間に合って……。もう大丈夫よ、カイト」
まだ朦朧としてはっきりと状況がわからなかったけど、直前まで重く伸し掛かっていた水圧まで一切がなくなっていた。
「姫さまの光結界の中です。おにぃちゃん、本当によかったですぅ」
リシィのすぐ後ろにはテュルケもいて、僕たちを包んでいる目映い球体は、どうやら水だけを押しのけた光結界によるものらしい。
そうして僕がまだ周囲を見回していると、リシィがそっと抱き着いてきた。
冷たい……リシィもテュルケもずぶ濡れのままだ。体は震え、それはおそらく水温のせいと溺れかけた僕を慮ってのもの……。
「カイト、本当によかった……。あなたが光を発してくれなかったら、暗い水中で見つけられなかったかもしれないの……。うっ……失わなくて……本当に……」
「そう……か……。あれが合図になっていたのか……」
僕はリシィを抱きしめながら、濡れたままの髪を優しく撫でる。
視線を落とすと傍らにはテレイーズが寝かされ、静かに胸を上下させ寝息を立てていることから無事なのだとわかった。
「ここは……天国じゃないよな……?」
「ん……何を言っているの、カイトも私も、テレイーズだって生きているわ」
「アサギは……?」
「そこに……」
リシィの視線の先を見ると、僕の背後、光結界の外で球体を支える強化外骨格の姿があった。先ほど水中で聞こえた音は推進音だったのか……。
「カイト、ごめんなさい。そして、ありがとう」
「え? 謝罪を受けるようなことは何も……」
「いえ、最後はすべてをあなたに託してしまったわ……。テレイーズの感情を変に波立たせないよう、あなたの意志と願いだけに委ねてしまったの……」
「うん? それはどういう……」
「だ、だから……私の嫉妬する気持ちが、テレイーズに悪影響を与えると考えた人がいるのよ……」
「それは大丈夫だったと思うけど……いったい誰が……」
「アサギ……。私たちの、別の私たちの娘が……」
「……っ!?」
どうやら、リシィとアサギの間で何かやり取りがあったようだ。
「な、なんにしても、信じていたわ。黒泥の中から、こうしてテレイーズを救出してくれることを。カイトならきっとやり遂げてくれると信じていたわ」
「僕が想定したことは大して役に立たなかった。人一人でできることには限りがある……それでも繋げたのは、やはり皆が道を切り開いてくれたおかげなんだ。僕のほうこそ、ありがとう。皆にもあとでお礼を言わないと……」
「ええ、帰りましょう。カイトが、私たちが望んだ平穏の中へ」
平穏……テレイーズ真龍国の平定を始め、まだやり残したことはある。
世界中に散った墓守は、最後の一体を討滅するまで被害を出し続けるだろう。
だけど、少なくとも目に見える大きな脅威はなくなった。
まだすべてがなくなった確証もないけど、【天上の揺籃】の戦いにまつわる一連の出来事は、神龍テレイーズを救い出したことでいちおうの終結は迎えたはずだ。
変わるといい。この世界がよりよい方向に、今度こそ変わるといい。
「ふぇ……さ、寒いですぅ~……」
そんな未来に想いを馳せていると、震える声がすぐ傍から聞こえた。
見ると、テュルケが震えながらこちらを見て、あまつさえ体をこするためにお胸様の下で組まれた腕が、水に濡れ透けている下着を強調してしまっていたんだ。
「うん、清純の色だね」
「カイト……?」
「ち、違う! テュルケもおいで、体が冷えたらいけない」
そうして、僕はテュルケも傍に招いてリシィと共に抱きしめた。
だ、断じてお胸様目当てではなく、あくまで紳士的に体を温めるためにだ。
ほ、ほほら、今はサクラもいないから体温で温め合うしかないから。
しかたがない……しかたがないんだ……や、やわわ……。
リシィが一瞬だけこちらにジト目を向けたけど、そこはテュルケを邪険にすることもなく、彼女たちもまた一緒にお互いを抱きしめあった。
柔らかい彼女たちの感触と温かさに、僕もようやく落ち着ける……。
「ん……」
だけど堪能する間もなく、テレイーズが目を覚ました。
思えば、現実で真っ当な彼女の姿を見たのはこれが初めてだ。
とはいえ初めての印象はなく、十歳頃に若返ったリシィそのままの姿だったから、違うとすれば生え揃った左右の竜角と、伸ばしっぱなしで顔を隠す前髪くらい。
グランディータのように裸でもなく、心象世界から形状だけを引き継いだ白いワンピース姿だったのは安心できるところだ。
「目が覚めた? どこか体に異常はないかい?」
「んにゅ……カイト……。だいじょぶ……」
テレイーズはそう言って体を起こし、自分の体を不思議そうに眺めた。
なんというか……舌っ足らずなところとか、仕草の一つひとつが幼女リシィにそっくりだから、二人の繋がりがもし言動や記憶にまで影響していたとなると、ひょっとしたら彼女もまた僕たちと旅を共にしていたのかもしれない……。
僕のことも知っていたようだし……。
「いたくない……いたくないっ! いたくないっ!」
そして、唐突にテレイーズは笑顔を輝かせた。
いや、比喩ではなく、本当に金光を発しながら輝いた。
その喜びは幾星霜にも渡る時を超えたもの。彼女は、痛みに耐え続けた日々からようやく解放されたんだ……。本当によかった……。
「神龍テレイーズ、もう大丈夫よ。私はあなたの龍血を受け継ぐリシィティアレルナ ルン テレイーズ、もう誰にもあなたを傷つけさせないわ」
「リシィ、しってる。カイトがだいすきなひと!」
「んっ!? そ、そそ、それは私も知っているけれど……ごにょごにょ……」
リシィと似た姿で無邪気か、これは別の意味で一波乱がありそうだな……。
なんにしても家に帰ろう、皆の待つ僕たちの居場所に……。