第百四話 願う
「……私の名は、アサギ ルン クサカ」
「龍血の姫神子が受け継ぐ力の名……!?」
「……そう……お母様から、あなたから私が受け継いだ名前」
「け、けれど、私には子どもなんて……!」
「……あなたでは前提とする知識が足りないから……教えたところで理解は及ばない。……私は、お父様とサクラお母様……そして、あなたが行き着いた過去の世界から分岐した、“帰れなかった時間軸”のもう一人の私」
「過去の世界から分岐……帰れなかった……?」
「……多元宇宙……並行世界……それは今はいい。……だから、あなたと私のお母様は同一人物であっても異なる存在。……この光景は、私が思い描いた幻想」
「……」
アサギは言葉を途切れさせながら、普段の口数の少ない彼女からは思いもしなかったほど、端的にでも話をしてくれた。
けれど、それでもどういうことなのかは、よくわからない。
時間軸が分岐するということは……過去の世界から帰れなかった私たちがいて……それで、私とカイトは……アサギは、要するに……。
「はっ!? カイトは!? テュルケは!?」
「……お父様なら大丈夫。……問題はあなたの存在だったから、こうして私の心象世界に閉じ込めさせてもらった。……終われば開放されるわ」
「な、なぜ、私が……?」
アサギはもう一人の私とカイトをどこか憂いを帯びた瞳で遠く眺め、しばらくそうしてから一歩を踏み出し私の隣に並んだ。
「……あなたは……嫉妬するでしょう?」
「え?」
「……お父様は、あなたがお父様に向ける想いで、神龍テレイーズの意識を刺激して覚醒させようとしたけれど……もし、お父様が自分とよく似た少女を抱きしめたりでもしたら、あなたは嫉妬するでしょう?」
「そ、それは……」
「……黒泥の底で、少しの負の想念が何を引き起こすかはわからない」
「嫉妬はするかもしれないけれど、そ、それだって愛情に変わりはないわ」
「……そうかもしれない。……それでも、一万年以上もの長い年月に渡り、心身を蝕まれ続けたテレイーズには……ただ、お父様の純粋な願いだけで事足りると判断した」
「……そう……ね。カイトは、ただ一途に人を想う……。そんなだから私も惹かれて、その……帰れなかった世界では、アサギが産まれたのね……?」
「……そう。……今の時代で二人がよりよい関係になれば、もう一人の私が産まれることになるかもしれないわ」
「んっ……!?」
そういうこと……。アサギは何も言わないからわからなかったけれど、こうして話をしているとカイトによく似ているわ。その……私にも……。
実感なんてない。それでも、こうして二人で並んで身に覚えのない仲睦まじい家族の様子を遠く眺めているのは、どうしてか心地好く思えてしまう。
私の未来に、可能性のひとつとして見えるものだから。
……ただ、少し違うわね。カイトと赤ん坊を抱える私がいるのはいいわ。
けれど、そこにテュルケやサクラにノウェム、皆がいないとダメだもの。
これからを願うのなら、そうであって欲しい……。
「何もできないのは歯痒いわ。けれど、私はカイトを信じているもの。私の“銀灰の騎士”カイト クサカ……アサギにとっても大切なお父様よね」
「……そう、私は並行世界の彼方から、お父様を守るためにやってきた」
「なら、見守りましょう」
アサギはもうひとつの団欒を見守りながら、静かに頷いた。
「ねえ、もう一人の私たちの話を聞かせて……」
◆◆◆
目が眩む金光に包まれ、次に目蓋を開いた時には景色が様変わりしていた。
僕は足場のない空のただ中を飛んで……いや、立っていて、これまで見た以上に鮮烈な光景の目撃者となっている。
遠く眺めるのは神代の都市だろう。太陽が落ちようとしているのか、それとも昇ろうとしているのか、陽の光はあまりにも鮮やかに空と雲を紫色に染め、艶やかな赤と橙が地平線の彼方を燃やすように色付けている。
そんな絶景のただ中で、高層都市に降り注ぐのは青光の柱【ダモクレスの剣】。
これは終わりの光景だ、神器の記録で見るよりも遥かに鮮明な最後の記憶。
「悲しいな……」
僕は自身の呟きで頬が濡れていることに気がつき、辺りを見回したところでようやくリシィもテュルケもアサギもいないことを認識した。
「僕だけ……? 少し前まで、確かにこの手で……」
そして、体を振ってぐるりと視線を一周したところで、唐突に元の視線の先に、世界の終わりの光景の中に座る少女がいることにも気がついた。
始めからいたのではない、僕が周囲を見回している間に現れたんだ。
「そうか、ここが君の心象世界か……」
――神龍テレイーズ。
何もない中空で、まるで椅子に座るかのように少女はいた。
こちらに背を向け、その後ろ姿はリシィが最初に若返った時とよく似ている。
リシィよりも長い風に揺れる金糸の髪、両方とも揃っている白金色の竜角、光のワンピースを着て足をぶらぶらと揺らしている様は幼子そのままだ。
そして、僕は警戒心もなくまるで親しい家族に歩み寄るよう、彼女に近づいた。
「隣に座ってもいいか?」
少女は何も答えず、ピクリとも動かずにただ終わりの光景を見守っている。
「座るよ」
否定もないのなら構わないだろうと、僕はやはり何もない中空に腰を下ろした。
「君がテレイーズだろう? 僕はカイト クサカ、始めましてでいいのかな?」
少女、テレイーズは何も答えない。
長い髪で目は隠れ、その視線が実際にどこを向いているのかはわからない。
ただ、現実世界と変わりのない陽光の温かさと、流れる風の冷たさを感じ、それだけではない彼女から漂う甘い匂いまで、すべての五感が感覚を持っていた。
テレイーズと二人、僕たちはただ神代の絶望を遠く眺めている。
……
…………
………………
……………………
『いたい……』
そうしてどれだけの時間が経ったのだろうか、唐突に隣の少女が呟いた。
「どこが痛い? 僕に見せ……」
破壊される都市から視線を隣に向けると、こちらを向いた彼女と目があった。
その姿は封牢結界の底で見た時のまま、あまりにも痛ましいあの時のままだ。
髪と服の隙間から覗くのは白骨、“肉”を毟り取られ内蔵がむき出しになった姿は、この光景にありながらのさらなる絶望でしかない。
どれほどの痛みが長い年月に渡り続いていたのか、残された片側の瞳に意思の光はなくただただ終わりを求めている、そんな眼差しだ。
『いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いた……』
「これがなんだかわかるかい?」
痛みに耐えかね食ってかかりそうなテレイーズに、僕はそれを見せた。
右腕の【星宿の炉皇】を掲げ、その手の内に浮かぶのは翠色の光。
拳の大きさほどで、柔らかく暖かな炎を燃やすとある力の塊だ。
『アッ……あっ……アゥ……』
「うん、リヴィルザルの願いの塊、“創生”の力だ」
片腕だけが白骨化している両腕を伸ばしたテレイーズに、僕は焦らすこともなく【翠翊の杖皇】を渡した。
「ごめん。黒泥を恐れず、最初に会った時に渡してしまえばよかったんだ。いろいろと考えすぎて事態を悪化させるのは反省したい……。いや、反省している場合じゃないな……どうだい? リヴィは、自らが滅んだあとも君のことを想っていたよ」
『ア……ぅ……り……ヴ……』
「うん、リヴィ、リヴィルザル。ひょっとしたら君は知らないのかもしれないけど、君のお兄さんだ」
『ア……カイ……と……』
「うん? 僕はカイト、君にそれを届けに来た」
届けたかったものは二つ。
リヴィの願いの形と、リシィの人としての愛情。
蝕まれた体を癒やし、人の想いによって意識を覚醒させようとした。
だけど、この心象世界を見る限りではただ記憶を映し出しているだけで、黒泥の形をしたエウロヴェの遺志はどこにも見当たらない。
テレイーズ……エウロヴェが人を憎悪することになったセレニウスの写し身、彼女に対しては決して悪い感情ばかりではなかったのかもしれないな……。
『カイ……ト……シってる。もう一人のワタシ……いつモ、アナタのこと……スキ』
「いつも……。ああ、そうか……連れてくるまでもなく、繋がっていたのか……」
『スキ、アたたかい……ワタシ、同じキモチ、ホシイ……いたくない、欲しい……』
「それが、君の願いか……。うん、ならここから出よう、一緒に外の世界へ」
テレイーズは一瞬だけ逡巡し、次に受け取った翠光を口から飲み込んだ。
そして、時を置かずに滅びの光景も金光と翠光に飲み込まれていく。
エウロヴェ……今度は間違えないよう、僕たちは世界を繋げていくから……。
光の中で、僕は一人の少女に自分自身の左手を差し出した。