第九十七話 愚者の王
テレイーズ真龍国の君主は他ならない“龍血の姫”だ。
“姫王”、“姫神子”とも呼ばれ、龍血を受け継ぐ女性王族の中でも特に年若い十代の神器継承者が王位に就くと聞く。
にもかかわらず、玉座に踏ん反り返るこの男は自らをこの国の王だと恥ずかしげもなく言い放ったんだ。
リシィが実の兄を忌避する理由、そして何より笑わない理由、合点がいった。
「面を上げよ愚物ども、俺の威光にひれ伏すばかりでは感ずることもできまい」
傲岸不遜な物言いは、どこまでも自分以外のすべてを見下している。
だけど、従わずにいればすぐにでも首を刎ねられそうな人となりに、僕は不服を悟られないように恐れ多くも従った振りをして顔を上げた。
僕たちを見下ろす男は、リシィに似て端正な顔立ちでどこまでも人を馬鹿にした酷薄な笑みを浮かべ、長い金髪の合間から覗く切れ長の目には、それが元々の王族の色なのか深い紫紺の瞳がやはり嘲笑うかのように収まっている。
そして服は青地に金の縁取りで軍服にも似て、きらびやかな金の装飾と引きずるほどに長い白色の外套を覆う毛皮が、ただただ邪魔そうだ。
あれがリシィの実兄、ラドリュウム ロン テレイーズ……。
「しかし我が愛しの妹君よ、どこぞへ消えたかと思えば男連れで戻ってくるとはまったく大した女よ。何があったか竜角を失い、その姿は無様ながら外見だけは誰もが羨むほど、下町にでも下れば引く手も数多だろうよ。くっくっはっ」
これならまだ、エウロヴェのほうが話はできただろう。
人に対する敬意は微塵もなく、己のみが絶対存在なんだ。
僕はリシィに対する息を吐くように垂れ流される侮辱を耐える。
「お兄様、ヴォルドールからフザンの状況は聞いたでしょう? ここで話をしている猶予はもうあまりないの、民と国を守るために力を貸して、お願い」
「ああ、聞いた。なに、我が国を落とせる軍勢なぞ、武に秀でたエスクラディエをもってしても不可能。何をそこまで恐れる、我が愛しの妹君よ? 国を捨て男連れでいまさら戻り、おまえが従えることのできる武力はあるとでも思うか?」
「それ……は……」
こいつは事の深刻さをまるで理解していない。
慢心で形作られた玉座にただ座るだけの愚か者だ。
何より、その視線は血を分けた実妹に対してであろうと冷たく、酷薄に笑う表情は笑っていながら能面のようで誰のことも見ていない。
こんな奴が、高潔でどこまでも誇り高いリシィの兄であっていいはずがない。
まさに彼女とは真逆の存在。血の繋がりのある妹と兄だから、国の平定のために良い関係を築くことができればと考えていたけど、これでは……。
「殿下、これはいけませんなあ……。いかに姫殿下といえど、象徴たる竜角を失ってはテレイーズの名折れ。ここはひとつ、せめてもの情けで男と共に軟禁し次代を産ませてみてはいかがでございましょう。他の者はこのデュリシャウスが……ふひっ」
さらに最悪なのは、周りにラドリュウムを諌める者がいないこと。
デリシャスが揉み手をしながら進言するのは、実際のところ面倒なリシィを放逐し、テュルケとアシュリーンを自分のものにしようとする下衆の考えだからだろう
玉座の間にいる他の臣下に至っても、ほぼ八割方おこぼれにでも期待するのか、ニヤニヤと遠巻きにするだけで一切の助け舟を出さない。
それでいて、さっさと次代の“龍血の姫”を産み落とせと言うのだから、もはやリシィに対する敬意は欠片ほども残っていないんだ。
「ふむ、確かに。いくら我が愛しの妹君でも、竜角を失ってしまえば放逐もやむをえまい。だが、さすがは我が愛しの妹君とも言えようか、それを理解しわざわざ自らを孕ませる男と共に戻ったのだ。その潔さに拍手を贈ろうではないか」
「ふひっひっ、それは素晴らしい! 慈悲深きはさすがでございます! さあ皆の者、用意周到な姫殿下にせめて盛大な拍手をお……」
――ドッボゴッ……ゴッ! ドンッ! ゴガンッ!!
続いたのは、拍手ではなく打撃音とそのあとの静寂。
「ふぅ~、やれやれなのよ~。ここまで酷いとは思わなかったのよ~」
「ああ、本当にな。リシィに対するそれ以上の侮辱を僕が許すわけないだろう」
さすがに無理だった。
リシィを侮辱するための拍手を、僕は許せなかった。
だから僕は、一息で距離を詰めデリシャスをぶん殴ってしまったんだ。
その辺りはアシュリンも同意してくれるようで、結果としてダブルパンチが直撃したデリシャスは吹き飛び、見事にぶくぶくと丸い肉塊は転がって壁に激突した。
そして、人々の顔からは侮辱の色が消え、本来この場ではありえないだろう暴虐に、誰も彼もが呆然と床に転がるデリシャスを遠巻きにする。
「ぷぎょっ!? 殿下の御前で……なんたる、なんたる、なんたる狼藉……! 近衛よ、さっさとこやつらを引っ捕らえ、打首……ええい、それすらも生ぬるい! この吾輩がっ、自ら貴様ら逆賊の肉を削ぎ落としてくれるわっ!!」
まだ動くデリシャスの言葉で騎士たちが動き、僕たちはすぐに取り囲まれた。
「まっ、待ちなさい! 彼らは私の騎士と、その……メイドなの! だから……!」
「ほう、我が愛しの妹君よ、つまり俺の前での謀反と取られかねない行為、おまえが責任を取ると言うのだな?」
「え、ええ、そうよ! だから彼らのことは許して、お兄様……!」
「くっ、くくっ、良かろう、ならばおまえは俺の慰み者として、生涯……」
「その汚い口を閉じろよ外道」
玉座の間に金光が太陽のごとき目映い光を放つ。
ラドリュウムに向けられた矛は、他ならない僕が形成した神槍――【星宿の炉皇】。
当たり前だ。リシィの意向には従うと考えた少し前の自身にすら反するけど、大切な彼女をここまで侮辱した時点で許すつもりは微塵もない。
「こ、これは……」
「【星宿の炉皇】、龍血の第六の神器だ。僕は、おまえたちをリシィの願いを妨げる障害だと認識する。これ以上の龍血の姫に対する狼藉は、如何な権威だろうとこの“銀灰の騎士”カイト クサカが己の意志をもって排除対象とする」
「くっ、はっはっ! やれるものならやってみよ! 俺に手をかけた瞬間、近衛がおまえの庇い立てる大切な主を八つ裂きにするやもしれぬぞ!」
「それこそやってみろ、偽りの王」
「近衛よ、許す! こやつらを皆殺しにせよ!」
だけど、その許しがなされることはなかった。
取り囲む数十人の騎士たちは一斉に飛びかかるも、蛮行は金光の壁と鋼鉄の騎士に阻まれ、誰一人として指の一本も触れることすらできなかったんだ。
それは当然、テュルケの“金光の柔壁”とアサギの乗り込む強化外骨格、予期しない未知の戦力に対し騎士たちは攻め手を欠いてしまう。
「うーっ! 姫さまを侮辱するのはっ、私も許せませんですですっ!!」
「……自分を侮辱されたようで気分が悪い。……排除に同意」
「おまえら……何者だ……!?」
「知らないのか? 人類の滅亡を目論んだ神を討滅した者、そしてそれはリシィが成し遂げたことでもある。ただ玉座を温めていただけの偽りの王とは違うんだ」
さすがに形勢が不利だと判断したのか、ラドリュウムは玉座に座ったまま表情を歪ませ、残った大臣たちは恐れ慄くような視線を向けて後退る。
所詮は名ばかりの偽りの王に、心から傅く者なんて誰一人としていない。
「ヴォルドール、おまえも加勢せよ! こやつらを殺せ!」
アラドラム将軍は先ほどから瞑目したまま微動だにしていない。
嵐のような事態の変遷の中でも、ただ静かにその場で跪くだけだ。
「殿下、俺はリシィティアレルナ ルン テレイーズ姫殿下の御身を守る剣。その男が矛を向けなければ、殿下に切っ先を向けたのは俺であった」
「きっ、きさま……!? それがどういうことかわかっておるのか!?」
「殿下こそ、龍血の姫神子様を蔑ろにすることが、このテレイーズ真龍国の長い歴史に対する謀反になるとお気づきか。護国が剣、このヴォルドール アラドラム、姫殿下がお戻りになられた以上は殿下に頭を垂れる理由もない」
「おのれ……!」
そして、僕は玉座に向かって一歩を踏み出した。
「カイトッ、もうやめてっ……! こんな人でも私のお兄様なのっ……!」
だけど、その一歩を遮ったのは侮辱された当のリシィだ。
僕の体に縋りつき、深い青色の瞳からは涙がこぼれ落ちている。
わかっている。身内同士が争うなんて、彼女が何よりも嫌うだろうことは。
「リシィ、ごめん。だけど、たとえ肉親だろうとけじめはつけないといけない」
「それなら私だって……! 国を捨てるように逃げ出してしまったもの……!」
「捨てたわけじゃない。それに、君はもうけじめとして世界を救ったじゃないか」
「うぅっ……カイ……ト……」
僕は一度抱きしめたリシィを離し、再び愚者の王と向かい合う。
それと同時に、ラドリュウムは玉座の脇に立てかけてあった剣を抜く。
「くっくっ……はっ、俺が戦えぬとでも思うたか? どいつもこいつも役に立たない愚物どもとは違う、我が剣の錆としてくれようぞ。死ぬことを許す!」
「おまえは、どこまでもどうしようもない……」
「くははっ! 許す、許すぞ! 死ね下郎!」
「歯を食いしばれ……!!」