第八十八話 湖畔に響く笛の音
時刻は間もなく夜、太陽が西の地平に沈みかけ辺りは徐々に暗さを増している。
「狼狽えるな! 湖畔に防衛線を築け、全員駆け足!!」
想定を超えた緊急事態に誰もが立ちすくむ中で、この地の指揮を任されたルシェが、呆然と対岸を眺める騎士たちに指示を飛ばした。
そして、一度は沈黙が支配したフザンの町に再び人の活気が取り戻される。
町民は退避し通りは閑散としているものの、指示を受けた騎士たちが武器や資材を手に湖を目指して移動を始めたんだ。
誰の顔にも焦燥が滲むものの、それでもテレイーズの竜騎士、練度は高い。
フザンにはもう僕たちと竜騎士隊、大聖堂に残った数人の聖職者しかいない。
湖の対岸には夕陽を背にこちらを睥睨する威容、【黒泥の龍皇】。
「リシィ、試してみたいことがある」
「ええ、カイトのことだもの、きっと的を射ているのよね」
「確証は何もないけど、やれると信じてやってみせるよ」
「カイトさん、具体的には何をなされるのですか?」
「それについてはまず僕たちも防衛陣地に向かおう、騎士たちの希望となり士気を高めるためでもあるから。アサギも手伝ってくれ、ノウェムも頼む」
「……了解」
「我も? あいわかった」
そうこうするうちに、ルシェの様子に気がついたリシィが彼女の手を取った。
「ルシェ、だいじょうぶよ。わたしたちもついているから、肩のちからを抜いて」
リシィはルシェの両手を握って見上げ、一見すると大人が子どもをあやしているように見えるけど、今は逆だ。
無理もない、相手はあのような姿でも神龍テレイーズ。彼女が優秀なのは年若いながら副隊長を務めることからもわかるけど、今回ばかりは相手が悪かった。
大の大人だろうと本能的な恐れに震えてしまうのだから、それでも職務を全うしようとするルシェは演じているわけでもなく、やはり本物なんだ。
「将軍から託された以上はこの地を死守しなければなりません、臆している場合ではないのです……! 皆に示しがつきません……!」
そうは言ったものの、まだ周囲には数人の騎士たちが待機している。
彼らは肩を強張らせる彼女を見て、それでも決して蔑むこともなく、ただ黙して動き出すのを待っているんだ。年若い副隊長に対する信頼もわかった。
ならあとは希望を見せるだけ。
心根に通る芯、何者にだろうと打ち勝てる力を彼女たちにも。
「ルシェ、皆にも見せたいものがある。あの程度、なんてことないと思える希望は常に僕たちと共にあるんだ。まずは湖畔に移動しよう、期待してくれ」
「リシィさま……カイトさま……。わかりました」
そうして、僕たちはルシェと騎士たちを先導し、今も墓守迎撃の準備が進むフザン第一防衛線、大龍穴湖の畔へと向かった。
―――
湖畔の防衛陣地に併設された仮設指揮所まではそう遠くない。湖沿いの通りを五分ほど行ったところ、大聖堂の裏手にその場所はある。
湖は砂浜ではなく一面が砂利で、上陸阻止のため水際に高さ一メートル程度の防塞が築かれているものの、【黒泥の龍皇】に対しては意味をなさないものだ。
とはいえ、すでに防塞を乗り越えようとした小型墓守の残骸が波に打たれていることから、墓守に対しては充分な障壁となるだろう。
「にゃっ! にゃにゃんにゃっ、にゃーん!」
「ポム、上陸阻止お疲れさま。動きがあるまでは休んでいて」
「にゃんっ!」
【黒泥の龍皇】は封牢結界から現出したあとはその場に留まり、今はまだ一歩を踏み出すどころか身をよじることすらしていない。
対岸までの距離は二十キロメートル強と距離があり、遠く双眼鏡で観察すると足元の黒泥が蠢いていることが確認できるから、向こうも準備段階なんだろう。
対するこちらの防衛陣地は石材で即席の防塞を積み上げ、その裏に竜騎士隊が北から南にかけて分隊ごとの戦列を築いて広く布陣している。
この中でも主力となるのは、隊長格でもある【神代遺物】を持つ幾人かの騎士で、数はあまり多くなく見てわかる範囲で十二人。
問題は、防衛部隊の総数が四百人程度と“層”として見た時に薄く、すぐの増援を期待できない状況では分隊ひとつの壊滅が戦線崩壊を招きかねない。
あとは探索者が百人ほどで、フザンにいない人員に関しては西側の迎撃陣地に近い数が、湖の南北にもあくまで警戒目的の極少数が配されている。
「よし、リシィはここに立って」
「え、ええ、ここ……?」
露天の仮設指揮所で、僕は木箱を並べてリシィをその上に立たせた。
防衛陣地の、それもど真ん中に姿を現した幼女に対する反応はさまざまだ。
まだ全員が事情を知るわけでなく、白金の竜角を見て察したのか驚く表情をする者もいれば、幼女がいることに対して怪訝な表情を浮かべる者もいる。
注目は湖畔に波紋を広げ、多くの騎士たちの視線は【黒泥の龍皇】から振り返ってこちらを見るまでになった。
「ノウェム、アサギ、僕の隣に」
「……了解」
「あい」
僕たちはリシィの背後に並び、彼女は肩越しに不安な表情でこちらを見るも、大丈夫だからとそのまま前を見ているように頼んだ。
そして、僕はあの言葉を紡ぐ。
これまで何度となく聞いた彼女の歌を――。
「紫翠を統べし者――」
「「「……っ!?」」」
「花天月地を馳せる者――」
「まさか、【翠翊の杖皇】!? カイトが……!?」
できるはずだ、できると信じて心象を思い描く。
「翠翼を冠する者――」
“創星”の力、半身の【星宿の炉皇】が黄金色に光り輝く。
そうだ、今ここにはリヴィルザルの龍血を受け継ぐノウェムと、テレイーズの龍血を受け継ぐアサギ、さらにはグランディータの龍血を受け継ぐ僕が揃っている。
「白金龍の血の砌 打ちて 焼きて また打たん――」
ならばできる。この必然が、彼女の贈り物だと信じ成してみせる。
「グランディータ、リヴィルザル、テレイーズ、三柱の神龍よ! 幼体の檻より彼女を解き放つために力を貸してくれ! 今一度、“龍血の姫”に誇り高きその力を!!」
僕たちの周囲で渦巻いた金光が翠光に変わる。
誰もが輝きに目を細め、今目の前で起こっている目映い光景を、訳もわからないままにただ見上げている。
リシィは驚き、それでも僕が何をなそうとしているのかを察し、結局は体ごとこちらを向いて腕を広げ、この願いを受け入れる体勢を取った。
顕現するは【翠翊の杖皇】……いや違う、僕が心象に思い描くのは……。
「形を成せ!! 【時揺りの翼笛】!!」
ビキリと、右腕の芯に痛みが走った。
それでも、翠光は僕の右手の中に収束し、長い柄の翠笛を形成する。
翠笛は揺らめいて確かな形にはならないけど、一瞬だけでいい、リシィを元に戻すだけの力を放てれば、そのほんの一瞬だけでいいんだ。
僕は右腕の痛みを堪えながら、焼きついて決して忘れることのない大切な彼女の姿を胸に想い抱き、翠笛を空へと掲げた。
――ピョウヨオオォォオオオオォォォォォォォォォォンッ……
なんとも間抜けな音が湖畔に響き渡り、一瞬の間を置いて穏やかな翠光だけを残して【時揺りの翼笛】は霧散する。
そうしてゆらゆらと漂った翠光の帯はリシィを包み込み、目を閉じたまま身を委ねる彼女を光り輝く繭の中に閉じ込めてしまった。
「ぐっ、きついな……。だけど、確かに思い描いたぞ……」
倒れそうになる僕を、隣にいるノウェムとアサギが支えてくれる。
こんなところで、まだ倒れるわけにはいかない。
結果を見届け、さらにその先に備えないといけないんだ。
誰もが固唾を飲んで見守る中で、翠光の繭は夜陰に光を放ち続ける。
待つ時間は歯痒い、その瞬間までがわずかだろうと時間が惜しい。
だけど、僕の彼女に対する想いはそのすべてを込めたんだ。
そうして、翠光の繭は人々の頭上を照らす粒子を残して弾けた。
……
…………
………………
……………………
「……あっ」
「「「……っ!?!!?」」」
結果は、僕が想定もしなかった事態を招いてしまった。