第八十五話 世界を飲み込む遺志
「ノウェム、体調はどうだ?」
「子細ない。包み隠さずに言うのであれば、万全ではないが以前ほど辛いようなこともなくなっておる。血も吐き出さぬであろう?」
「よかった。ここからの脱出にもノウェムの力を頼らせて欲しい」
「任せるがよい。くふふっ、主様に頼られるのは嬉しいな」
今ばかりはノウェムのおかげで無事に済んだけど、あの黒泥をどうにかしないことにはテレイーズに近づくこともできない。
今のリシィで顕現できる【翠翊の杖皇】の効果範囲は限られ、届くとしたら直線距離にしておよそ五メートル。
ノウェムの“転移”能力で間近まで繋げられるけど、黒泥に浸かったままのテレイーズを癒やしたとして、果たして止まるかどうか……。
エウロヴェの遺志……どうしようとも人類を根絶やしにしたいようだ……。
「サクラ、治療はもう大丈夫だ」
「はい、本当にもうよろしいですか?」
「ああ、神器の脚だから致命傷にはならない。それよりも、あの黒泥に触れてしまえば存在そのものが影響を受ける。みんなは絶対に触れないよう気をつけてくれ」
「え、カイトは平気なの……?」
「元より存在を失っていた右脚だったからね。これ以上は失いようもないよ」
「ですが、あの姿形を自由自在に変化させる相手に対し、少しも触れないというのは……」
「そうだな、竜騎士隊に“氷結”などの対象固定化能力を持っている人はいますか?」
「そ、それでしたら、地上にさえ戻れば片手で数える程度ならおります」
僕の問いには、まだ困惑しているルシェが答えた。
そもそもが“存在”に対する直接攻撃だとするなら、リシィとテュルケの防御結界もあっさりと抜いた黒泥に能力が効果を及ぼすとはとても思えない。
片手で数える程度では、一瞬の隙を生み出すにも数が少ないだろう。
「あとは、【緋焚の剣皇】で因果に干渉して……いや、ダメか」
「ええ、ただでさえ制御できない力なの……。それに、あれがエウロヴェの遺志だとしたら、仕掛けたわたしたちが逆に干渉されるおそれもあるわ……」
リシィの消耗も激しい、続いて【翠翊の杖皇】を顕現できなければ意味もない。
僕はノウェムに頭を抱えられた状態から体を起こす。
右脚はまだ芯に痛みが残るものの、これまで侵蝕を受けていた神器が黒泥の力を退け始めたのか、徐々にだけどようやく動かせるようにはなっていた。
“創物”……いや“創星”の神器、【星宿の炉皇】……。
僕の右腕と右脚に宿る、このリシィから与えられた神器が鍵となるか……?
「カイトさま、あの泥が回り込んできます!」
ルシェの声に顔を上げると、柱の左右から回り込んでくる黒泥が目に入った。
流れは勢いを増し土石流のようで、ここもあと数分で飲み込まれてしまうだろう。
「みんな、後退するんだ! 走れ!」
僕たちが走り出すと同時に、壁になっていた柱まで倒壊し始めた。
背後で引き起こされるのは異常な光景だ。直径数十メートル、高さにしても数百メートルはある柱が、黒泥に飲み込まれた端から沈んでいく。
天井を支えていたはずの基部はあっさりと折れ、その大質量がまるでないもののように、黒泥自体が深い深い水底を持つかのように、沈んで消えていく。
さらにこの異常事態は、留まることなく拡大を続ける黒泥によって、地下根源物質世界の至るところで同様の事態が引き起こされてしまっていた。
――ズズンッ……!
そして、衝撃音とともに大きな震動が走る足元から伝わってきた。
それは天井が崩れ始めた衝撃だ。飲み込まれた柱が存在した場所から、失われてしまえば天井に亀裂が走るのは当然、間を置かずに崩壊も始まる。
僕たちの背後の光景は、もはや大海原で巻き込まれた大嵐に等しい。
「はあっ、はあっ、カイッ……トッ……! わたしっ、もう……」
僕は脚を引き摺りながらリシィの手を引くも、それも徐々に皆から引き離される。
「ぐっ、ここまでなのか……」
「主様、ここはとうに限界だ!」
「ノウェム……! 離脱だ……!!」
「あいっ!」
その瞬間、地面を走っていた視界が、突如として天井の亀裂に変わった。
続いて大樹洞の底、長い時間をかけて下りた洞の途中、空間は途切れることなく翠光の陣によって連結され、僕たちは瞬きの間に入口までたどり着いた。
「「「……っ!?」」」
誰もが、ノウェムの能力を理解して直前に頼んだ僕まで、何が起きたのかと混乱して事態を把握するまでに少しの時間を要してしまう。
「けふっ……」
「ノウェム!? 大丈夫か!?」
「子細ない。さすがに、これだけの人数を同時転移させるにはむせてしまうが……見よ、まだ鼻血も吐血もしておらぬぞ、主様よ!」
ノウェムはよほど嬉しいのか、消耗を微塵も感じさせない笑顔を見せてくれた。
「これが、セーラムの力……」
「アラドラム将軍、得心している場合じゃない! この内部に存在するすべての竜騎士隊に退避命令を伝えてください!」
「……全隊に撤退を指示。アルドヴァリ副長、おまえも行け」
「「「はっ!」」」
ルシェと騎士たちが大樹洞から外に駆け出していく。
洞の底を見下ろしても神力の青色がぼんやりと光るだけで、さすがに黒泥がここまで上ってくるにはまだ時間がありそうだ。
だけど、天井が崩落してしまえば洞とかは関係なく、そこかしこが地獄絵図になってしまうのは間違いない。退避は時間との勝負、なんとか持ち堪えてくれ……。
それでも、退避が無事に済んだとしても、黒泥の流出を止められなければ……。
「どう……すれば……」
「カイトさん、まずは地面が崩壊する前に私たちも脱出しましょう。考えるのはそのあとです。生き延びなければ、止めなければならないものも、止められません」
「ああ、そうだよな……。アラドラム将軍、黒泥の進行速度を抑えられる固有能力持ちを集めてください。あとは、できるだけ多くの増援を……」
「指示を受けるまでもない。我々はテレイーズ真龍国を守る竜騎士、対するが神龍テレイーズであろうと民の犠牲を甘んじて受け入れるわけにはいかない」
よかった、「滅びが神の意志であるならば……」とはならない意思があるようだ。
「よし、あれだけの広い地下世界だ、地上に到達すまでは多少の猶予があるだろう。ノウェム、僕たちとこの場所にいるすべての騎士たちを退避させて欲しい」
「任せるがよい。主様とセーラムの名に懸け、全うしてみせようぞ」
「ごめん、負担をかける」
「主様よ、我が欲しいのは謝罪の言葉ではないぞ」
「そうか……。爺ちゃんにも謝罪よりもとよく言われたっけ……」
そうして僕は、今も、これからも負担をかけるノウェムを抱きしめた。
「ノウェム、ありがとう。君の最大限の力を借りる」
「むふーっ! それでこそ我の主様なのっ!」
抱擁は一瞬だけ。それでもノウェムは満足したようで、また笑顔を見せてくれた。
「リシィ、抱え上げればよかったな。大丈夫か?」
「はぁ、はぁ……ふぅ……。いいえ、カイトはまだ脚を引きずっているわ、わたしのために無理をしないで。うらめしいのは、歩幅までちいさくなってしまったこの体よ」
「そのことなんだけど、ひとつ試したいことが……」
「おにぃちゃんっ、底のゴーッて音が大きくなってますです!」
「うん、崩壊も時間の問題だな……。この世界ごと隔離するしか……」
「触れられない以上は隔離が最善策と私も判断しますが……神龍テレイーズを救い出せなくなることと、それをどう成し遂げるかが問題ですね」
「だよな、真の解決にはほど遠い……」
僕はぐるりと全員の顔を見る。
サクラ、ノウェム、テュルケ、アサギ、ポム、アラドラム将軍、そしてリシィ。
今の状況では、テレイーズに犠牲を強いるような最悪の選択しか思いつかない。
だけど僕には、こんな僕でも大切に想ってくれる皆がいて、選択肢がないからと無下に命を投げ出すような真似もできない。
考える。これまで幾度となく考え続けたように、今ある選択肢を、まだ気がついていない選択肢があることにも、深い意識の淵で思考を巡らせる。
この状況を覆してしまうほどの最善へと導くには、いったい何が足りない……。
僕に、もしできることがあれば……それは……。