第八十三話 黒の汚泥 嘆きの少女
「カイト、おねがい」
「ああ、慎重に開くよ」
リシィの願いも受け、僕は騎士剣を抜いて構造物に近づく。
「ノウェム、縦穴の場所を確認しておいてもらえるか」
「何があろうともすぐに退避できるようにだな。任せるがよい」
太い柱を回り込み、なおかつ唯一の進入口となる天井の亀裂までは高さが優に数百メートルはある。
下りるのはともかく、迅速に上へ戻ろうとすると縄では足りず、やはり距離が意味をなさないノウェムの能力は何よりも心強い。
構造物の傍ではアラドラム将軍が険しい表情で白壁を見ているけど、さすがに内部にいるのが神龍テレイーズではおいそれと手を出せないのだろう。
「将軍、下がっていてください」
「おまえにこれを開くことができるのか」
僕はできることを示すため、騎士剣に金炎を纏わせ【星宿の炉皇】を形成する。
ただ、思っていたものとは違った。
形状はリシィが顕現するものと同じ馬上槍だけど、実体があるのは縦溝が彫り込まれた柄頭から実際に握った柄までで、それより先の護拳から穂先までの槍身本体は、どういうわけか黄金色の炎が槍の形を象っていた。
変化の理由は、やはり再び引き出すことができた青炎の影響か……。
「先ほどの青き炎といい、此度は我らが黄金の光、妙な力を使う」
「リシィから与えられた、神器【星宿の炉皇】。龍血の黄金の力そのものが、本人でさえ知らなかった第六の神器だったんです」
さすがの将軍も、畳みかけられる多くの事実に驚嘆を隠せないようだ。
彼は一瞬だけ目を見開き、だけどすぐに表情を元の巌に戻すと、特に何も言わずに白壁の前から皆が待機する場所まで下がっていった。
やれるならやってみせろということだろうな……。
「神龍テレイーズ、あなたの助けを求める声に応えて僕たちはここまできた。この封牢を破るために力を借り受けるけど、決してあなたに矛を向けるつもりはない」
リシィによると、テレイーズの人化形態は十歳前後の少女だという。
だから僕は、彼女に対して害意はないと語りかけ、借りた力を使うのはあくまでも助けるためであることを強調して告げた。
人類とは時間の流れでさえも違う存在、悠久の時を生きるだろう少女に、僕はまず人が寄り添っても大丈夫な存在だと教えてあげたいんだ。
「今からここを開く、怖がらないで少しだけ我慢して欲しい」
皆が青い花園で固唾を飲んで見守る中、僕は右腕を引いて槍を構えた。
この世界が神龍テレイーズの暴走で生み出されているのなら、同じ“創物”の特性を持つ【星宿の炉皇】なら干渉することも可能だと判断する。
なら傷つけずに開くことはできる、そう信じて僕はこの黄金の槍を振るう。
「カイト、おねがい! テレイーズを救ってあげてっ!」
「ああ、救い出すさ、どんな暗闇からだろうと!」
僕は力と想いを込め、まずは黄金色の炎で揺らめく穂先を突き入れた。
「開けっ!!」
そうして光槍は白壁に何の抵抗もなく突き刺さり、次に体を反転させて柄を両手で持ち替え、背負い投げの要領で下から上へと斬り上げた。
跡を残すのは黄金色の炎の筋、白壁は中央より左右にわかたれる。
「……なっ!?」
「カイトッ、下がって!」
だけど、続いての事態に僕は咄嗟に飛び退って距離を取った。
構造物を斬り開いたことは確かだけど……その瞬間、切断部から黒く濁る泥のような、腐臭を放つ粘性の液体が漏れ出したからだ。
黒い汚泥はすぐ花園に至り、青い花は黒く染め上げられ萎れてしまう。
「カイトさん、焼却します!」
「ま、待て! 正体がわからない!」
そうとは思いたくないけど、この黒泥が神龍テレイーズそのものの可能性を考え、正体がわからないうちは迂闊に攻撃することも避けたい。
さらに、迂闊に触れてしまえば青い花のように侵蝕される可能性まである。
これがもし罠だとしたら、エウロヴェが自らの滅びたあとでさえも人類の滅殺を考えていたのなら、僕たちはまんまと誘われここまで来てしまっているんだ。
また僕たちは、自らの手で引き金を引かされた……!?
「壁が、崩壊する……あふれ出てしまうわ……!」
そして、白いばかりだった構造物は今は煤けた灰色に汚れ、切断箇所から急速にひび割れが全体に広がったあとは、黒泥に押しのけられて内側から崩壊した。
「抜剣!」
アラドラム将軍が指示を出し、騎士たちは一斉に剣を抜く。
だけど、このおぞましい黒泥が神龍テレイーズかどうか、正体を判別できないままでは構える以上は攻撃することも許されない。それが、彼らにとっての神龍だ。
そして、黒泥が流れ出るとともに構造物の瓦礫は流され、美しい青に煌めいていた花畑はあっという間に広がり続ける泥の中に沈んでしまった。
いったいどうすれば……。
『イ……たイ……イタ……い……』
「この声は……!?」
「神龍テレイーズの声よ! ずっと聞こえていた、かのじょの声!」
今度ばかりは、リシィだけでなく僕にも皆にもはっきりと聞こえた。
少女のものとは思えない、むしろ老婆のようにしゃがれた声音で、ただ繰り返し繰り返し「いたい、いたい」とだけどこからか聞こえてくる。
声が聞こえるのは、明らかにあの中……。
「カイトさん! ダメです、危険です!」
僕が黒泥に踏み入ろうとした瞬間、回り込んだサクラに抱き止められた。
危険なのはわかっているけど、止める理由も充分にわかるけど、それでも目の前で苦しむ誰かがいるのなら、痛みからだって解放するために尽くしたい。
父さんや母さんのように何もできずに終わるなんて、絶対にさせやしない。
「サクラ、大丈夫。あの泥には触れないようにするから、まずは青炎で焼く」
「は、はい……。ごめんなさい、カイトさんが勢い余って踏み入りそうだったので……」
「それは、ごめん……。止められるまでその気はあった……」
「カイトさんは……」
サクラは何かを言いかけたものの口を噤んでしまい、その代わりにいつの間にか傍に来ていたリシィが僕の左手に触れた。
「カイト、わたしの手をにぎって。あなたは誰かのためを理由に、じぶんのことを顧みないんだから。手をつないで、残される者がいることをわすれないで」
「そう……だな……皆を悲しませるのは不本意だ。どんな不条理に見舞われようと、怒りと憎しみを抱えてしまっても、皆に対する親愛をなくさないで進みたい。だから……」
「無論、主様の傍には我も常におるからな」
「私もです。カイトさんのお傍を離れませんから」
「ですです! 私も姫さまとおにぃちゃんと一緒にいますです!」
皆に囲まれる中で、リシィは今度こそ僕の左手を握った。
「『だから』はわたしの言葉よ。も、もうはっきりと気持ちは伝えているのだから、片時も忘れないで傍にいなさいよねっ! カイトがいなくなったら、本当に心から帰りたいと願える場所がなくなってしまうの……。だから……」
「だから、皆で一緒に終わらせよう」
「んっ、んぅー……わたしの言葉と言ったのに……」
リシィは膨れっ面で僕を見上げ、それでもしっかりと繋ぎ止めてくれている。
そうだ、父さんと母さんがいなくなったあと、それでも僕には爺ちゃんがいた。
そして今の僕にはリシィが、サクラが、ノウェムが、テュルケが傍にいてくれる。
なら何ひとつ投げ出すわけにはいかない、痛みに苦しむ彼女でさえも。
『イタ、い……ゴボッ……イ……たい……タスけっ……ゴボッ……』
黒泥はマグマのようにボコボコと煮え立ちながら、悲痛な嘆きとともに明らかな意思を持って根源世界を蝕み続けている。
そしてその中央で、元は白い構造物が存在した場所から、一人の少女が黒泥に押し上げられてようやく姿を現した。
目を背けたくなるあまりにも痛ましい姿で、今にも黒泥で溺れてしまいそうな……。
「すぐに助けるからな、テレイーズ!」