第六十一話 帰郷
――テレイーズ真龍国、港街エドゥーク。
「海岸線が後退しているけど、元々が江戸川区なんじゃないかな……」
「やはりここはかつての日本なんですね……。なんと申し上げればいいのか……」
「大丈夫。驚くけど、不思議と感情に波は立たないようだ」
サクラが僕の右腕にそっと触れ心配そうに支えてくれる。
伝えた通り、街並みが様変わりしているため異国を訪れたような印象だ。
今朝は例の夢から覚めたあと、艦はすでにテレイーズの沖合に到着していたため、慌ただしく上陸準備を進めて考える暇もなかった。
今はテッチが操船する短艇の上で、徐々に近づく船着き場を眺めている。
もう一人の僕……そして娘……。
リシィを失ったと告げた彼は、可能性の彼方の世界の僕……なんだろうか。
つまり今ここにいる僕は、“リシィを失わなかった”結果を辿って存在している僕で、いくつかの近似する並行世界では“リシィを失ってしまった”僕までいる……。
それはすなわち、今この世界でも十分にありうる可能性だということに……。
「姫さま……やっと帰ってきましたです……」
「ええ、旅立ったときとあまり変わらないわね……」
傍らではリシィとテュルケが、久しぶりに帰った故郷を懐かしくも複雑な感情の込められた表情で遠く眺めている。
瞳の色は緑と青、少しの黄、必ずしもいい思いばかりではないようだ。
そして背後を振り返ると、僕と目の合ったアサギが顔を背けた。
普段はない反応だけど、どうも今朝から彼女を気にかける僕の様子を敏感に察知したのか、急によそよそしい態度になっているんだ。
目が合ったといっても、平時は装備していないはずのバイザー越しなので、見えない彼女の眼差しが実際にどこを見ているのかはわからない。
今朝の夢がただの妄想でないのなら、僕が託されたものはやはり……。
「接舷するんで、ちょい掴まってくださいっス!」
「ああ、大丈夫。テッチ、残りの手続きもよろしく頼む」
「ウェイッ! ポムの入国手続きっスね、このテッチにお任せくださいっス!」
ポムはまたしても待機だけど、こればかりはどうしようもない。
そうして、短艇は間もなく桟橋に到着し港の係員によって係留された。
海に突き出た小型船用の桟橋を足で踏んだところで、テレイーズに上陸だ。
「ふむ? 港の割に辛気くさいな、以前訪れた時はもっと活気があったが……」
ノウェムの言い分はたしかに港の様子を表していて、多くの船が湾内を行き交ってそこかしこで荷物のやり取りはされているものの、どうも影があるというか、何かピリついた雰囲気に支配されてしまっているんだ。
港の様子は、和の情緒をなくした明治ごろの日本と言ったところか。建物はどれも二階までの高さで太陽が中天に差しかかる空が高く見え、真っ白な石材で窮屈に建ち並ぶ様は、どこか潔癖染みて他所者を拒んでいるように思える。
ルテリアとも、かつての日本ともだいぶ違うな……。
「三年以上ものあいだ、国をだいひょうする“龍血の姫”がすがたを見せなかったら、街に活気がないのもとうぜんだわ……。ごめんなさい……」
「ぐぬっ……我にも責はあるな、謝罪しよう……。すまぬ……」
「いいのよ、ノウェムも被害者なんだから……」
今、リシィは竜角を隠すためにフードを目深く被っている。
変装するまでもなく、幼くなってしまった彼女は体格の都合で気がつかれることはないだろうけど、“白金の竜角”は“龍血の姫”だけが持つ特徴に違いない。
港を見渡すと、他の国よりも多い竜種の角は大体が赤を含む茶系の色合いだから、彼女だけの白金は表に晒すとそれだけでも目立ってしまうんだ。
リシィがなんとなく物欲しそうに腕を持ち上げたので、僕はその手を握った。
「大丈夫だよ」
「ん……ありがと……」
「まずは宿に向かいましょうか」
「ああ、大通りを直進すればいいんだっけ」
「はい、ニキロほど内陸に進んだところだそうです」
「うん、行こうか」
本当はすぐに神龍テレイーズを探しに出たいところだけど、ポムの上陸を待つのとこの国の現状を知りたいことからも、僕たちはまず拠点となる宿に向かう。
そうして、踏み込んだ片側二車線の大通りは人も馬車も関係なく入り乱れ、左右に軒を連ねる商店の建物はやはり真っ白で、少なくとも日本では見たことのない装飾を施された街並みは、僕にとってはやはり異国でしかなかった。
テレイーズ真龍国――大小様々な島に分断されたかつての日本。
本州でさえ十三もの島々に分割され、近場だと千葉が本州から切り離され大きな島になってしまっていた。
当然、東京湾には南の他に北東からも進入できるようになっていて、その北側航路の出入口付近にこの港町エドゥークは存在する。
世界地図を見ても気がつかなかったのは、もはや日本の形をしていないというのもあるけど、周辺にかつてはなかった島々まで存在しているからだ。
地殻の移動で集まったどこかか、長い年月の間に隆起してできたものか、その辺りの地勢は詳しい経過が記されたものがないのでわからない。
そして大通りを歩きながら西を望むと、建物の切れ間から時折その巨大な構造物を目にすることができた。
“白樹城カンナラギ”……すでに白化した幹の根本が数百メートルの高さで残るだけのようだけど、間違いなく僕が【翠翊の杖皇】の力で創生した巨木だ。
今は聖域とされ、神代から辛うじて残る巨大な遺構だから、少し聞いただけでも北欧神話なんかに類する眉唾な話まで出てくるんだ。
神話も元を知ってしまえばただの人が創り上げたものとは……。
「そういえば、テュルケは変装しなくても大丈夫なのか?」
テュルケは丈の短い外套は羽織っているけど、顔は隠していない。
「大丈夫ですです! 私はずっと姫……お嬢さまのお付きで外に出たことはなかったですし、前よりもおっきく成長しましたからバレないと思いますです!」
テュルケの答えに、僕は視線を思わず下げてしまった。
いや、成長期だから身長が伸びたと言いたいのだろうけど、『おっきく』と言うならさらに成長している部分がどうしても気になってしまうから、しかたないんだ。
彼女はそのおっきく成長したものを揺らしながら、軒を連ねる商店を懐かしむように眺め、時折『お嬢さま~』とリシィを呼んでは楽しんでいる。
上陸までは表情が曇っていたけど、やはり故郷に帰れて嬉しいんだろうな。
「……」
「サクラ、どうかした? 思うところがあるようだけど……」
「あ、はい……。ここがかつての日本なら、期待していた和の情緒がなく少し残念に思えてしまって……。あっ、いえ、決してテレイーズに情緒がないと言っているわけではなく……リシィさん、ごめんなさい……」
「んぅ? いいのよ、気にしないで。わたしだって実際に日本をみているんだもの、いまのテレイーズに同じものがないのはわかるわ。カイトもそう思うわよね?」
「まあ、懐かしさを感じないのはたしかだね。ここはかつての日本であって、もう僕の知る故郷ではないんだ。それ以上に思うことはないよ」
「ん……けれど、また故郷と思ってくれたらわたしはうれしいわ……。その、この国を、水と緑ゆたかなわたしの故郷を、カイトにも好きになってほしいの……」
「もっ、もちろん好きです!!」
「んっ!? な、なあに……そのいきおい……」
しまった、つい声を荒げてしまったことで通行人の注目を集めてしまった。
日本ではなくなった街の様子に気を取られ失念していたけど、僕は来訪者でそれだけでリシィ以上に注目される存在なんだ。
周囲ではこちらを見てヒソヒソと何かを話す人が増え、隣を歩くサクラが威圧するように肩で担ぐ【烙く深焔の鉄鎚】を持ち直すなんてことまでした。
「ご、ごめんサクラ。助かる……」
「いえ、何かあっては困りますから、言動にはお気をつけくださいね」
「はい……」
ちなみに【烙く深焔の鉄鎚】は封印状態にない。
【神代遺物】の起動は各国、各行政体の許可が必要だけど、今は身内に最高権限者がいることでいつでも稼働できる待機状態になっている。
リシィが許可しただけで、実際に稼働したら捕まるかもしれないけど……。
「カイト、みなも、ありがとう」
「うん? 急にどうしたんだ?」
大通りを人混みに揉まれて歩きながら、リシィが突然ぽつりとお礼を言った。
「みなのおかげで、わたしはまた故国に帰ることができたわ」
「まあ我のせいでもあるから、礼なぞ要らぬ。何やらこそばゆいわ」
「それでも、頼もしいあなたたちが一緒でよかったの」
「まだやることは残っている。僕はこれからもリシィと一緒だよ」
「う、うん……ありがと……」
「もちろん、私も共にあります」
「わたしもですです!」
「……(コクコク)」
辿り着いたリシィの故郷で、僕もまた彼女たちが一緒でよかったと思った。