プロローグ
――男がいる。
僕が見ているのは輪郭のぼやけた世界。
そのただ中で、一人の男がこちらに背を向け佇んでいる。
……これは、また夢を見ているんだ。
神器の記録ではない、誰のものとも知れない夢を……。
さらに男の向こうには、彼に走り寄る一人の少女の姿があった。
「パパ~!」
男は近づいた少女を抱え上げ、愛おしそうに抱きしめる。
「おかえりなさい!」
「ただいま。いい子にしていたか?」
「うんっ、ママのいうことちゃんときいてたぁ~!」
「すっかりお姉ちゃんになる準備は万端だな」
「えへへっ」
これは、どこにでもある帰宅した父と娘のやり取りだ。
ただ、男が背負うのは対物ライフルと普通のサラリーマンではないだろう。
戦地から帰還して久しぶりに家族と再会した軍人といったところか、少女が慌てて駆け寄り頬ずりするほどに喜ぶ理由だ。
だけど、これがそれだけの夢でないことは、彼らの容姿が訴えかけている。
「サクラは一緒じゃなかったのか?」
「えとね、サクラママはマコトちゃんとくるよ」
男は少女を抱き上げたまま前へと歩き、その名を口にした。
間違いない、あの僕に対し背だけを見せる男は僕だ。
だけど、幼女となってしまったリシィと瓜二つの少女は誰だ?
ここはどこで、僕はいったい何を見せられているのか、自分自身の記憶にはなく願望ともまた違うこの夢をどう判断したらいいのか、わからない。
「そうか。それはそうとおみやげだ、欲しがっていただろう?」
「わぁ~、ありがとうパパ! だいすき!」
少女はもらったものを嬉しそうに掲げ、お返しに男の頬に口付けをする。
だけど、それはどう見ても強化外骨格のアクションフィギュアで、少女にあげるものでもましてや欲しがるものでもない。女の子としては変わった趣味だ。
「本当にこんなものでいいのか? 女の子なんだからもっと……」
「これがいいのっ! パパのぱわーどすーつだもん、かっこいい!」
僕は強化外骨格を装備したことがない。
となると、僕が見ているのは今よりも未来の時間軸か……?
体格のいい男は未来の僕で、男を『パパ』と呼ぶ少女がリシィとの……。
なんでそんなものを見ているのかはわからないけど……この光景からわかることは、僕らしい男にはリシィによく似た娘がいて、周りにはサクラとモリヤマもいる。
そして相変わらず何かと戦っていて、真に心休まる平穏はまだない。
「カイトさん!」
もう確定だ、早足で駆け寄るサクラが僕の名を呼んだ。
驚くのは彼女の姿で、ショコラブラウンの髪は今よりも長く腰まで伸び、相変わらず着物姿だけどそれはいい。
問題は、袖からちらりと見えた右手に酷い火傷痕が残り、顔には右目を隠す眼帯とその下に火傷のひきつれが、さらには大切そうに抱えるお腹が大きかった。
「カイトさん、ご無事で何よりです」
「サクラ! 無理して駆けて体に障ったらいけない!」
「ご、ごめんなさい……。こんな体なので、お傍にいられないことが不安なんです」
「それは、今はしかたないな……。だけど、ただいま。ちゃんと帰ったよ」
「はい、お帰りなさい。ふふ」
だいぶ大人びたサクラの微笑は、これ以上ないほどに美しく可憐だ。
大きなお腹は、まあそういうことなんだろうけど……あれでは戦闘もできないし、よく見ると首元にも火傷痕が見えていて、酷く痛ましい姿になってしまっていた。
僕は……大切な彼女を守れなかったのか……。
だけど、父と母と娘、そして新たに生まれる子、ここには幸せな家族の姿がある。
リシィやノウェムの姿が見えないのは気になるけど、彼女たちを失うなんてことがあっていいはずがない。あの男が未来の僕なら、何がなんでも守っているはずだ。
サクラと同じく傷つけてしまったとしても、その命だけは……。
「パパ、だいじょぶだよ。わたしがね、ちゃあんとサクラママのおてつだいしてるから。パパがかえってくるまで、いっしょにおりょうりしてたんだよ」
「そうか、じゃあお手伝いの成果を見せてもらわないとな」
「うん! そのかわり、こんどのおみやげはエーテルハンマーがいい!」
「はは、ちゃっかりしているな。武器にまで興味を示すとは……まあ、探してみるよ」
「この子はいつもフィギュアのカタログばかりを見ていて、女の子らしいものには興味を示さないんですよ。誰に似たんでしょうね」
「ま、間違いなく僕だな……ごめんなさい……」
「はい、カイトさんからも言い聞かせてあげてくださいね」
「ああ……」
少女を抱き上げたまま、男とサクラは並んで歩き始めた。
輪郭の滲んだ世界がどこかはわからず、彼らの帰る先がルテリアなのかテレイーズなのかはわからない。
辺りは夜の帳が下り始め、徐々に暗さを増すとともに青い光を映し……て……。
僕は、この時になって初めて気がついた。
おぞましさに気圧されその気配に振り返ると、背後にはもうなくなったはずの“青光の柱”が天高くそびえ立っていたんだ。
そんな、バカな……エウロヴェはもう……。
再び彼らに視線を戻すと、さらに僕は重要なことに気がついた。
男の右腕が銀色だということに、それは僕が失くした【銀恢の槍皇】の色。
今の僕の右腕は、リシィから与えられた【星宿の炉皇】の黄金……まさか……。
「そうだ、遥かな未来から来訪したもうひとりの僕」
もうひとりのカイトが振り返り、もうひとりの僕と目が合った。
表情に精悍さが増し、刻まれた多くの傷が歴戦を物語る歳経た男は齢三十を越えたくらいだろうか、鋭い眼光と風貌はもはや戦士のそれだ。
若い僕に何かを訴えかける視線を送り、それでも尊ぶように眺めている。
「僕は守れなかった。大切な彼女を」
『嘘だ……』
「嘘じゃない、残るのは彼女の忘れ形見のみ」
『僕は、騎士として、何がなんでも……』
「僕と君は違う。君は守り抜いた、僕は守れなかった。そして、帰れなかった」
『ここは、まさか……』
「ああ、そういう事象もこの世界には存在するということさ」
『僕が見ているのは……』
「君が辿り着かなかった世界。リシィがいなくなった世界線」
『嘘……だ……』
これが現実なのか、ただの夢幻なのかはわからない。
ただ、世界線まで超越し二つの神器が繋がっていることだけはわかる。
「カイトさん……?」
「パパぁ?」
「ごめん、ちょっと古い友人がそこにいてね」
僕の姿はサクラや少女には見えていないようだ。
二人とも首を傾げながら、そう言う彼の視線の先を辿るだけ。
「そんなわけだ、古い友人。もう二度と交わることはないだろうけど、並行事象の彼方で、僕の……いや、かけがえのない僕たちの娘を頼む」
『待て、待ってくれ! 娘とは、まさか……!』
――そうして、目覚めは突然に。
僕は彼らがどうなったのか知ることもなく、艦の船室で目を覚ました。
今の夢がなんだったのか、考えたところで答えは出ないだろう。
ただ僕は、彼《僕》に何よりも大切なものを託されたんだ。