第五十九話 不和の責
「にゃんにゃにゃんにゃにゃ~♪」
「はは、すっかり気に入っているな。気持ちいいか?」
「にゃ~ん♪」
「ふふ、気持ちよさそうですね」
「ですですぅ~♪ あわあわあわわ~ですですぅ~♪」
翌日、幸いなことにポムの上陸許可が下り、今は宿の裏庭で彼の水浴びに付き合っている。
石鹸の消耗が激しいため毎日は無理だけど、今回は久しぶりの陸ということで、サクラとテュルケも一緒に泡だらけになりながら体を洗ってあげているんだ。
だけど、僕は水に濡れたポムの毛の下が気になって仕方ない。
猫や犬は濡れると、毛の下に隠された細い体の輪郭が出てしまうものだけど、ポムは毛の長さぶん若干小さくなっただけでそう変わらずにまん丸いままだ。
つまり、ぽむぽむうさぎは体自体があの形ということになる。
謎生物だな……。
「許可がおりてよかったわ。みなもうれしそう」
僕とリシィは少し離れたベンチに座り、美少女と愛らしい動物?がふれあう光景を眩しいものとして穏やかに見守っている。
港湾都市オルディラは土地を広く使った開放感のある街だから、今いる中庭も緑豊かなテニスコート三面ほどの広々とした場所だ。
背後はコの字型の宿が三方を囲っているけど、開けた方向に海が見えるから囲まれる圧迫感はない。
「この大陸にはぽむぽむうさぎがいなくて、その分の驚異がおぞましい変異生物という話だから、価値観の差に助けられたかな」
「けれど、街をあるくとさすがにおどろかれたわね」
「あれで地域によっては“神獣”扱いらしいし、気難しいとも聞くから、対立する地域から来た人にとっては脅威に違いないんだろう」
「あんなにかわいらしいのに」
「剛腕だけどね。剛腕だけどね」
「なぜ二回も言ったの?」
隣に座るリシィは、不思議なものでも見るように僕を見上げている。
彼女も最初はポムを洗う輪に加わっていたけど、今の小さな体ではかなりの重労働になるため、少し前に休憩を取ることにしたんだ。
頬に泡がついていたので拭った時は、『あ、ありがと……』と少し頬を膨らませながらも赤らめていたので、僕はこんな時間がいつまでも続けばと願ってやまなかった。
「それにしても、どうしたのかしら……」
そう言ったリシィの視線は宿の屋根の上を向いている。
そこには、棟の端に腰を下ろして海をぼんやりと眺めるノウェムがいた。
僕たちが朝起きた時からすでにあの状態だったから、まずは下りてくるのを待っているけど、数時間が経過し昼になっても一向にその気配はない。
夜のうちに何かあればサクラが気がつくはずだし、ここ数日で彼女に関わりのあることと言えば、リシィの話だけだ。
図らずしも自身の行動が、竜角を奪ってしまったことが、ほんの少し違っていたら戦争を引き起こしていたから、責任を感じているといったところか。
ノウェムはあれで誰よりも繊細な面があるからな……。
「まちがいないわね……」
「リシィも気がついたか……」
「日本にいるときにテレビでならったもの」
「うん、ん? 何を……?」
「ノウェムのような状態を“ほーむしっく”と言うのよね!」
リシィは唐突にそんなことをドヤ顔で言った。
いや、“笑”が含まれていないので一見すると真剣な表情だ。
「たぶん違うと思うよ……?」
「えっ、ちがうにょっ!? んっ……」
リシィは慌てて噛んでしまい両手で口を押さえたけど、最近はいつものことなので、僕にとってその仕草はかわいらしいだけでご褒美にしかならなかった。
ナタエラ皇女殿下のリシィを閉じ込めておきたい気持ちがよくわかる、やばい。
とりあえず、ノウェムにはあとで僕から話を聞くことにしよう。
「リシィはノウェムが心配なんだね」
「んにゅっ……しょ、しょんなことは……」
「大丈夫。僕が話をするから、彼女のことはなんとかするよ」
「し、仕方ないわね、わたしが行くとすぐけんかになってしまうし……。カイト、今回ばかりはわたしの騎士ではなく、ノウェムの家族として接してあげて」
「ああ、ノウェムがいつもの調子じゃないと、リシィも張り合いがないよね」
「んぅっ! かっ、かんちがいしないでよねっ! あっ、あんな人はいないほうがっ、わたしの従者をひとりじめできてせいせいする……もの……。うん……」
そんなツンデレを発揮したリシィの頭を僕は思わず撫でてしまい、彼女はくすぐったそうにしているけど、胸中は複雑なようで瞳色にも表情にも困惑が滲んでいる。
やはり、ノウェムにはいつもの調子でいてもらわないとな。
――バシャーンッ!
「あっ、テュルケさん大丈夫ですか!?」
「にゃっ! にゃにゃんにゃっ!」
「ふえぇ……下着までびちょびちょに濡れちゃいましたですぅ……」
……っ!?!!?
そして、派手な水音にポムの方へと視線を戻すと、テュルケが流れた石鹸で足を滑らせたのか、泡の中で尻もちをついていた。
彼女は見事なまでに全身がずぶ濡れで、ノースリーブの白いブラウスが透けてその下の下着までくっきりと露わになってしまっている。
なんということだろうか……ブラウス越しに薄く透ける肌色は霊峰のごとく、信仰の対象として拝み奉りたいくらいの……。
「カ、イ、ト……? どこを見ているの……?」
「ほへっふっ!? 違います! いや、違いありません!」
「な、に、が……? わたしはどこを見ているのと聞いているだけよ……?」
「あわわわわわ、ごめんなさいーーーーっ!!」
龍血の姫 の 激おこ 世界 を 七度滅ぼす――。
―――
夕暮れ時、地平線に陽が沈む頃になってノウェムはようやく下りてきた。
日がな一日も何を思って屋根の上にいたのか、とりあえずはそっとしておいたけど、今日はリシィもサクラもテュルケも揃って落ち着きがなかったんだ。
それぞれが思い思いに過ごしても、誰もが気にしているのはよくわかった。
「やっと下りてきた。おかえり、ノウェム」
「……」
庭に出る軒下で、今は僕だけでノウェムが戻るのを待っていたんだ。
光翼から放たれる翠色の粒子が煌めき、夕陽の赤としだいに濃く変わる空の群青を背景に、その有様は神族とまで謳われるほどの神々しさがある。
だけど、そんなこの時代の種の中で頂点に君臨する存在でも、中身はさまざまなことに思い悩む普通の女の子なんだろう。
「ノウェム、自分を責めていたりするのか?」
「……主様には隠し事をできぬな。リシィの話を聞き、今さらながらに己がしたことの重大さに気がついてしまったのだ。相手のことなぞ一切を慮らなかった」
ノウェムは背を向け、その小さな背はどこか淋しげに見える。
「ノウェムが竜角を必要としたのは、何よりも代え難く、何よりも欲したがゆえの行動だったんだよな。慰めにもならないけど仕方がなかったんだ」
「それも結局は無駄に終わってしまったが……。偽神にそそのかされ不和を招いただけ、我は……あっ、主様……?」
僕はノウェムが何かを言う前に隣に並び、彼女の頭に手を置いた。
ずるいやり方だけど、どんな姑息な真似でも道を切り開くなら貫かせてもらう。
「大丈夫だよ、それでも僕の家族がしたことだ。なら家族のために、事態が悪化する前に解決してみせるだけさ」
「あ、あぅ……あうじ……しゃま……」
「僕が願うのは最高の幸せな結末ってやつだ。その中には当然ノウェムがいないと始まらないんだから、わがままに付き合ってくれないか?」
「うぐぅ……あうじしゃまはずるい……。我が一日、何を思い……」
「そうだ、僕はずるいんだ。だからこんな状態でも伝えることができてしまう」
「な……なにを……?」
そうして、僕はノウェムを抱きしめた。
本当にずるいと思う、自分でもさすがにこのタイミングはないと思う。
だからこそ押し通す、誰もが笑っていられる平穏のために。
僕自身のわがままのために。
「僕はノウェムが好きだ。いつか本当の家族になれたらいいなと思っているよ」
「あっ、あうっ……うぅぅー、あうじしゃまはずるいっ、ずるいっ! これでは、無理やりにでも幸せを願わないとダメではないかっ! 本当にずるいのっ!」
「僕もそう思う」
ノウェムは目尻に涙を溜めているものの、珍しく大泣きはしていない。
そして彼女は、僕の胸に頬を寄せながらも何やらゴソゴソと動き、どこからか一枚の紙切れのようなものを取り出した。
「それなら契約するのっ! 主様と我と皆が幸せになれるように、ここで足を止めないという約束をするのっ! これに署名するだけなのっ!」
……
…………
………………
「ノウェム」
「なぁに?」
「婚姻届じゃないか」
ノウェムはこんな状況でもちゃっかりしていた。