第四十話 航海一日目 不意の……
南へと向かう航路に乗った後は艦内を案内され、私たちは特にやることもなく一日を過ごした。
「なにをしているのかしら……」
その日の夜……月明かりで目映い夜陰の中、カイトが何をするでもなく手摺りに肘をついて海面を眺めている。
久しぶりの揺れる海上で眠れずに悶々としていたところ、隣室の扉が開く音が聞こえたから、気になった私もベッドを抜け出して足音を追いかけたの。
カイトはまだ気が付いていないようだけれど、私は扉の陰から彼の海風に揺れる黒髪を眺めているわ。べ、別に出て行っても良いわよね……。
「カイト、なにをしているの?」
「あ、リシィ。まだ起きていたんだ」
「ええ、海の上はひさしぶりで、すこし落ちつけなくて……」
背後から声をかけた私に、振り向いたカイトは穏やかに笑いかけてくれた
彼は小さくなった私の肩に触れ、自分の体で海風を遮ってくれる。優しい……。
「僕も似たようなものかな。海の上だと、どうしても冒険心がくすぐられて興奮してしまうんだ」
「わたしは慣れないからよ。カイトらしいわ」
「はは、寒くないか?」
「だいじょうぶよ。小さくなっても竜種だもの」
「そうでした」
興奮していると言う割に、カイトの横顔はどこか寂しそうに見える。
「なにを、見ていたの……?」
「海の底かな? いや、月明かりが海面に反射して見えないんだけどね」
私は、それで何となく察しがついてしまった。
「カイトの時代では……ここに何があったの……?」
「……はは、気が付かれたか。日本からは遠く離れて訪れたこともないんだけど、海底にかつての街並みが見えるかなと思って眺めていたんだ」
「そう……かつては大陸だったのね……」
「今はかなり内陸まで海岸線が浸食しているけど、昔この辺りは“ヨーロッパ”と呼ばれる地域だったんだ。海面上昇か、地殻変動によるものか、それともかつての戦いの影響か……世界はもう、僕の知っている姿をしていない」
「カイト……」
私に笑いかけながら話す彼の声音はあくまでも優しい。
自分の知る世界が変わってしまったというのに、それでも心配をかけさせまいと平静を装って笑いかけるの。思うところは、きっと良くも悪くも胸を締めつけるほどの見知った世界の崩壊なのに……いつだってカイトは、皆や私のことばかり……。
私は周囲を見回し、人目がないことを確認……いえ、今は別に人目があったところで構わないわ。
彼に報いたい。意地を張らないで、もう一人の“私”にも頼らないで、只々自分自身のありのままで支えとなりたいの。
だって、私は、私は、カイトのことを……もう、気持ちも伝えたものね……。
「カイト……抱っこ……」
「ん? ここで!?」
「いやなの……?」
「そ、そんなことはないけど……甲板上で危ないから、少し下がるよ」
この反応はカイトらしいわね。不意に艦が揺れ、海に落ちることまで今の一瞬で想定したんだわ。
そうして、構造物の傍まで下がったところで、彼は私を抱き上げてくれた。
見える視点が高くなっても、目の前に広がるのは月明かりに照らされた海ばかりで、何が変わったわけでもない。
ただカイトの横顔が近くなったことで、いつもより余計に安心出来てしまったことだけが、海上の寒夜の中で胸を暖かくしてくれる。
「ん……」
「ほわっ!? リリリシィ、何を!?」
「え、わたしいま……なにを……んにゅっ!?」
わわわっ、私っ、今確かに、無意識にカイトの頬に口づけをしたわっ!?
無意識にっ、無意識にっ! 本当に無意識に、彼の顔が近くてっ!!
「ちちち、ちがうのっ! す、少し感傷的なきもちになって……それでっ、あの……」
「ぐっ……ぐぬぬ……我のおらぬ間に、またしても抜け駆けしおって……」
「ノウェム!? いつの間に!?」
「ノウェム!?」
「私もいますよ。ふふ、カイトさんを労うのなら、私もよろしいですか?」
「サクラァッ!? いつから!?」
「最初からいましたよ。ふふっ」
「んにゅっ!? やっ、やーーーーっ! 見られていたのっ!?」
「ぐぬぬぬ……」
「ふふふっ♪」
ううぅ……人目は気にしないとは思ったけれど、実際に間近で見られているとなると……ううぅぅっ、とてつもなく恥ずかしいわっ!
……
…………
………………
その後は、四人で何をするでもなく夜の海を眺めた。
月明かりに目が眩まないよう、彼の横顔を見詰めながら。
航海一日目が終わる……。
◆◆◆
エスクラディエ騎士皇国を出港してから五日。
途中で何度か海魔獣の襲撃を受けつつも、鋼鉄の艦はまるで動じずに巡航速度で航海を続けた。
ここまでひたすらの大海原だった景色は、今はぽつりぽつりと島や海上に露出する遺構が目につくようになっている。
海上要塞群島――かつてのスエズ運河の中間地点に位置した都市で、神代で何があったのかはわからないけど、海面上昇とともに今は要塞化された人工の群島となった地域だ。
大小数十の要塞島で成り立ち、南方から地中海、現エルリヤ海に侵入しようとする大型の海魔獣を迎撃していると説明を受けた。
周辺は全て海の底、ここにかつてあった大陸はもう見る影もない。
「全艦戦闘態勢」
「全艦戦闘態勢!」
艦内に戦闘態勢が通達され、来たるレビィアタンとの遭遇に備えた。
だけど、艦橋から見る景色には今のところ戦闘が行われている形跡はない。
ファッザーニ提督を含め、幾人かの艦橋員が双眼鏡を覗いて警戒している。
今、艦橋には僕とリシィとノウェム、サクラとテュルケとアサギは外で待機中だ。
「クサカ殿、あれをどう見る?」
提督はそう言うと、僕に双眼鏡を渡してきた。
彼の指し示す先、肉眼でもぽつりと見えていたそれを双眼鏡越しに見ると、大型の戦列艦だということは直ぐにわかる。
ただ、状態がおかしい。帆柱は折れ、艦体に大きな破孔部まであり、それでも沈むことなく今も海上に浮いているんだ。いや、海上ではないか……。
「戦列艦ですね。島に乗り上げているように見えます」
「エスクラディエ艦隊の旗艦、戦列艦オーヴァルクレインだ。舵取りを失ったか、自ら乗り上げ砲座としたか、何にしても艦隊は全滅と判断するよりない」
「確かに、他に艦は見当たりませんが……」
「そんな……あそこには騎士皇もいるのよ……!」
「周囲にはいくつもの島がある。撃沈されたとしても、泳ぎ辿り着いたと信じるしかあるまい……。私も騎士皇に拝謁したことはあるが、艦を失ったところで容易く終える御仁でもない。まずは島に上陸を試みる、海中構造物に注意」
「はっ! 全艦上陸準備!」
「第一戦速」
「第一せんそーく!」
艦が徐々に速度を上げ始めた。
今のところ、レビィアタンどころか他の海魔獣も墓守も見当たらない。
通信に応答もなく、発光信号、手旗信号と、あらゆる通信手段にも島から連絡が返ってくることはなかった。
全滅……それはないと思いたい。海上要塞群島が陥落したら、エルリヤ海沿岸の町や村がレビィアタンの襲撃を受けることになる。
かつてはそれでエスクラディエも甚大な被害を受け、ルテリアから技師を派遣して海上要塞群島の神代遺物を稼働させたと聞いた。そう、あそこには大口径要塞砲がある、大型の海魔獣を退けるほどの火砲があるんだ。
「うっ……ひどい臭いだわ……」
「ああ、生臭くて……それでいて人工的な油の臭いも混じっている……」
「海魔獣の体液と墓守の油だ。深刻な海洋汚染に対しなければならないが、激しい戦闘が行われたことだけは確かとなった」
艦橋から海面を見下ろすと濁った赤黒い液体が海上を漂い、発する臭気は思わず顔を歪ませてしまうほどに臭い。艦橋の外では、サクラもテュルケも臭いに堪らずと鼻を摘んでしまっている。
「これではまずくないですか? 砲で引火してしまうのでは……」
「クサカ殿、我々には固有能力がある。既に水流操作で油を避け、万が一引火したところで我々にもあなた方にも火を操る者はいる」
「あっ……そうか」
僕が見ると、耳の良いサクラには聞こえたようで力強く頷いた。
とすると……この油も上手く使えれば攻撃手段となるか……。
現地の状況を確認したことで新たな手段を見い出せるのは、やはり机上だけではどうにもならない生の情報だ。
一応ここまでで海流は把握した、人工的に流れも作れる、相手によってはやってみる価値もあるな。
そうして、海上要塞群島に点在する中でも一際大きい島が近づいてくる。
湖島ルテリアのように、人工物の上に長い年月をかけて土砂が堆積したもののようで、木々に覆われた合間に建造物や砲塔が見える主島だ。
乗り上げた戦列艦はその島の向こう側。装甲巡洋艦カルヴァディオは島影に入り、直掩の駆逐艦二隻は周辺警戒の任に就く。
今のところ、レヴィアタンは僕たちの前に姿を見せていない。